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『アルテリ 十一号』 田尻久子「新しい場所」


熊本の橙書店の店主・田尻久子らが年2回発行している文芸雑誌。
渡辺京二、坂口恭平、石牟礼道子など熊本ゆかりの文筆家らが執筆者として参加。


「フェミニズム」という言葉を使うと怖がる学生がいる、と教師をしているお客さんが言っていた。「フェミニズム」がなんであるか知る機会がなかったのだな、とがっかりする。怒っている女の人たち、とでも思っているのだろう。
あなたがちが当たり前のように大学で勉強できるのも、選挙権があるのも、避妊を選択する権利があるのも、平等を訴えた人たちがいたからなのに。

(本書p.93)

本書掲載の田尻久子のエッセイ『新しい場所』を読んで、いま(2024年3月
当時)テレビで放映中のドラマ『不適切にもほどがある!』を惰性で観るのをやめようと決めた。

過去のクドカン作品が好きで今作を見始め、阿部サダヲの演技や毎回の小ネタに笑いながらも、特に最初の数話はすっきりしない気持ちになることが多かった。今作を愛している人を否定する意図は全くない。あくまで自分はもうええかなと区切りがついた。

田尻さんは本稿の中で、性差別について、フェミニズムについて、決して理念だけを先行させて喧伝することなく、あくまで自身の経験を引き出すことから始め、他の著作を引きながら、おだやかな調子で、しかし明確に強い信念を持って書き連ねる。

私たちの社会には性差別に限らずあらゆる不自由や不平等、もっと言えば個別の生きがたさ、それは自分自身が生きがたさと自覚していないものも含めて、それらに絡めとられそうになりながらどうにか日々を生きている。

そうした私たちに絡まる蔦は、何十年、何百年というスパンで歴史を生きた先人たちが彼ら彼女ら自身の問題として絡まり、棘に傷つきながら少しずつ、長い時間をかけて刈り取られてきた。その地面を踏んで私たちはいま生きている。

件のドラマはいちエンタメ作品で、政治的な達成意図をもった表現手段でないだろうし、たまにSNSでみられるような特定のイデオロギーや政治的主張を固持するために作品の揚げ足取りをするような身振りに与するつもりはなはい。

けれど本作のキャラクターの描き方に、台詞の言葉選びに、脚本の運び方の中に、蔦を刈り取った先人の気配がほとんど漂わない。とすれば、意図的にその気配を拭い去っているか、作者自身がその存在を知覚していないために無きものとされているか、そのどちらかではないか。

そしてこのことは作者の意図とは無関係に結果として政治性を帯びる。今作のような題材ならなおさらだ。

女性がなにかを成し遂げたときに、「ガラスの天井が割れた」という表現が使われるが、いったいガラスの天井は何枚あるのだろう。
あまたの女性が割ってくれたが、まだ何枚もあるみたい。それとも、ガラスの天井をせっせとはめなおす人がいるのだろうか。

(本書p.95)

居間のテレビをぼんやり見ながら取り込んだ洗濯物を畳むように、TVerで阿部サダヲの演技に笑いながら、手元でガラスの天井修繕の内職をしているような気分になりたくないのだ。神戸でスーツを仕立てる回はとても好きだった。ああいう話がもっと観たかった。


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