メタボリズム─ひとつの時代が生んだ共通の考え方/磯崎作品のみがもつ「死の匂い」─「磯崎新氏が述懐する丹下健三②」後半
この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。
これまでの連載はこちら
目次
●戦前,何をやっていたかは問わない
●第一のイメージは軸を対岸まで通すこと
●メタボリズム─ひとつの時代が生んだ共通の考え方
●磯崎作品のみがもつ「死の匂い」
●ポスト広島としての現在
戦前,何をやっていたかは問わない
─岸田先生について,関野克先生から聞いた話ですが,岸田先生が幻の東京オリンピックの施設計画を担当することになって,ベルリンに視察に行き,帰ってきてから『ナチスと建築』というナチス批判の本を出される.そして軍部に目をつけられたらしくて下ろされる.それを契機に岸田さんは人が変わった.それまでは自分でデザインする人だったのが,ボス的な取りまとめ役に変わってしまった.
磯崎 わかりません.50年代において,僕らは,戦争の問題に触れないというのが礼儀というか,当然のことでしたからね.
僕らにとっては全員戦後ゼロからスタートしたということ,戦前何をやっていたかということは問わない,そういう感じですよ.
丹下さんの戦争中のコンペが,問題になった,注目されるようになったというのは,わりと最近ですよ.みんながしゃべれるようになったというのは....佐々木宏さんが,中真巳の名前で『近代建築』に連載をやっていたとき,葦原義信さんがそれに対して「丹下さん,あんなこと書かれてよく黙っているな」ということをおっしゃっていたのを記憶しています.
戦時中のことをほじくり返されるのは嫌だったんです.だから,みんないわなかったし,僕らは知らない.岸田さんとはその晩年の10年くらいアレコレとつき合いました.ただ,それは楽しくお酒を飲むという関係です.僕と岸田さんでは非常に歳が違うのでまた違うつき合いができるのですが,丹下さんは岸田さんの前ではやはり緊張するという関係でした.岸田さんにとって僕なんかは孫みたいなもんだったんだろうと思います.大江宏さんから,お前たちの世代の礼儀はどうなっているんだ.俺たちに向かって減らず口をたたくのはよいとしても,岸田日出刀先生にまで平気な口をきいている,なんていわれたりしました.
─戦後に左翼的な建築運動がずいぶんと出てきますよね.彼らも過去は問わないということで活動をしていたということですか.
磯崎 みんなそれぞれに古傷をもっているというか,その古傷は触らないでやろうよという印象は強かったですね.
前川事務所にいて,香川県庁舎の現場をやってくれた道明栄次さんという人も実は左翼の運動家だったんですね.前川さんがそういう人たちを拾って,戦争中ずっと自分のところで飯を食わせてやっていた.それで,丹下さんは,コンクリートの打放しの経験がないということで,知り合いである前川事務所の道明さんに広島の現場のコンサルタントをお願いしたんです.みんなお酒をよく飲んだけれど,そんなときも昔のことは触れなかった.
─高山先生と丹下さんとの関係というのはどうだったんですか.高山先生は丹下さんの直接の指導教官ということになりますけれど.
磯崎 教授,助教授の関係ですからね.ただ,同じ都市計画の議論をしていても,高山さんはリアリスト.もとマルキストですしね.今でもマルキストだと思っているかもしれませんが,リアルということは何かということからすべてを考えていく人です.
それに対して丹下さんは,高山さんから見ればリアルということをまったく理解してない人間だったのでしょうね.丹下さんはもっと別なところから発想する.ただ,作品に対しては,高山さんも評価していたと思いますし,一種,アンビバレントな感情をもっていたと思いますよ.ですから戦争直後くらいまでは共同で仕事をやっていますけれど,丹下さんがデザインをやり始めてからは,別れてしまいますね.
第一のイメージは軸を対岸まで通すこと
─東京計画1960の話に移りますが,この東京計画,どうも発端がよくわからない.謎の部分が多いんですね.住宅公団初代総裁による加納構想という,原爆によって千葉の山を吹き飛ばし東京湾を埋め立てるという計画に連動していることはわかるんです.しかし,依頼されたのではなく,自主的に始めたことは間違いないようです.現在,東京大学の都市工学科に残っている初期の案らしい数点のスケッチを見ますと,加納構想と共通したループがあるものもあります.しかし,どのような段階を踏んで東京計画1960にたどり着いたのかがわかりません.
磯崎 丹下研の計画というのは,まず数名のグループをつくることから始まります.そのグループで丹下さんのコンセプトを取り込んで発展させていくわけです.ですからその発展過程で出てきた案が4〜5点あったと思います.
僕たちが図面を描いている頃,丹下さんは朝日新聞にコラムを書いていたんです.これからの東京に対する提案をわかりやすく読物にしたもので,たとえば東京に軸をつくれとか,東京湾を活用しようとか,100mくらいのスパンをもつ建物をつくれとか,そういうアイディアです.僕らはプランを固める過程において,これら散発的な言葉だけのアイディアをイメージとして受け止めながら計画を練っていきました.ですから東京計画1960に描かれている軸線,交通体系,ビルディングタイプなどは,丹下さんが直接,手を下していないものもありますが,丹下さんの意図は十分に反映されているといって間違いはないでしょう.
分担としては,神谷宏治さんが波のかたちの住居棟,黒川紀章さんがトランスポーテーションシステム,僕は軸の上の建物を計画しました.トラスを組んでつくった案は,僕自身が個人的にやっていた新宿計画をリファインさせたものです.新宿計画は丸柱だから,ここでは全部四角いトラスを組んでやりました.割合短期間にパッとできてしまったという感じです.
部分的には,図面を描くより前に模型をつくって検討したものもあります.丹下さんは最初,個別の模型を意識的に並べながら配置計画の検討をしようとしたのですが,時間がかかってしようがない.それであるとき敷地図の上に模型をぶちまけたんです.表した計画は,この自然にできた配置を線でつないでいったものです.このようにこの計画には偶然による要素もありますが,丹下さんの決定的なイメージは,軸を対岸まで通すことだったと思います,
─それまでの都市のモデルは,中心に核をもち,それが同心円上に広がっていくというものだったのに対して,この東京計画では線上に発展していくリニア都市が主張されている.ただ実際にこのようにかたちで発展していった都市はありません.そういう意味でリニア都市というのは非常に理念的なものです.渡辺定夫さんは計画当初,都市はそんなふうに発展するわけはないと思っていたそうです.
メタボリズム─ひとつの時代が生んだ共通の考え方
─ペンジルヴァニア大学の先生が,メタボリズムは東京計画1960から始まったというのがアメリカでは定説で,リニア状の発展計画を見れば,メタボリズムそのものであることくらい一目瞭然だろうというのです.日本では丹下さんとメタボリズムグループとは別のものなんですが,その先生の意見に反論する明確な根拠もなくて困った.東京計画とメタボリズムグループとの関係はどうだったのでしょうか.
磯崎 この問題は,東京計画に至る時間的経緯の中で考えることができるのではないかと思います.メタボリズムは,1960年の世界デザイン会議で歴史の表舞台に登場するわけですが,この世界デザイン会議の準備を進めているとき,丹下さんはMITに教えにいっているんです.そこで「25,000人のための海上コミュニティ計画」を手がけています.ですから丹下さんは日本に不在だったんです.丹下さんがアメリカでどのようなことをやっているという情報は,当然,研究室の僕らにはつたわってきていました.メタボリズムというものは,それに対抗するものとして川添登さんがつくり上げていったように僕は思いますね.メタボリズムの人たちというのは,それぞれコンセプトは別々なんだけれど,川添さんがまとめて命名して動き出した.実際,世界デザイン会議に丹下さんが提出したのは「海上コミュニティ計画」であり,メタボリズムグループはあの本『METABOLISM/1960』だったわけです.
実は僕もその頃,メタボリズムグループから誘われたんです.川添さんの家にいったり,白井晟一さんのところにつれていかれたりしました.もちろんこれに近いことも自分でやっていたんですが,メタボリズムグループに入るのは何となく気が進まないなという印象だったのです.安保がらみのことも忙しかったですし,僕がメタボリズムグループに加わらなかったのは単純にそういうことで,理論的にどうのこうのということではありません.後になって,自分があの時期やっていたこととメタボリズムの違いについて,いったり書いたりしていますが,当時はわかりませんでしたね.匂いだけです.
さらにいえば,当時,僕も黒川さんも丹下研に席がありましたが,僕はメタボリズムのメンバーではなく,彼はメンバーだったわけです.そうしますと彼に対する研究室の評価もおおよそわかるわけです.ですから,ぼくはメンバーになれば同じ結果になることがわかりました.また,ちょうどその頃,アルバイトでやっていた大分の医師会館が忙しかったこともありますね.
─メタボリズムのメンバーのうち槇さん,黒川さんが丹下研出身なわけですから,アメリカ人のそのような認識もあながち間違いではないんでしょうね.
磯崎 丹下さんがMITから帰ってきて,デザイン会議(5月11〜16日)が終わり,安保が一段落して,秋口から東京計画を始めたんですよ.その年の暮れ,除夜の鐘を聞きながらというくらいの暮れも押し迫った時期にこの模型をつくったという記憶があります.
─最終案を描き出したのは秋口だとしても,始まった時期とメタボリズムの関係がよくわかりませんね.
磯崎 丹下さんが東京湾に1本線を引いた案をもってきたのは覚えているんです.すべてそれから始まっている.最初の案は,建物がとかそういうものはなくて,軸だけの絵です.
─広島のピースセンターのときも大谷さんの記憶だと最初に軸があった.小さな紙に描いてあったというのです.面白い提案の仕方ですよね.軸描いて,さあ,これでいこうというのは....
磯崎 やはり軸がないといけないんです.
─軸というのは丹下さんの本質と実に深く関係した事柄なんだと思います.
磯崎 リニアであるということですね.僕自身,丹下さんのそういうやり方の影響をまともに受けていますから,軸という呪縛から逃れるのに10年以上の格闘が必要でした.ですから,大分の図書館なんかにはまだ軸が残っているんです.
─磯崎さんのプロセスプランニングというのは,メタボリズムとも東京計画1960とも関係しているように思いますが.
磯崎 あれは,誰が何といおうと,あの時代のひとつの共通の考え方だったように思います.僕はその真っ只中にいたせいもありますけれど,メタボリズムと丹下さんの影響というか,シンパシーというか,関係というものが色濃くあって,その中で自分独自の解釈と方法を探すということでプロセスプランニングを考えたんです.
磯崎作品のみがもつ「死の匂い」
─磯崎さんは,メタボリズムの人たちが中心になってやった「都市の未来と生活」という展覧会に出展されていますよね.
磯崎 僕が提出した新宿計画は,最初,川添さんからクレームをつけられました.ドローイングの中に廃墟と化したギリシャ神殿をコラージュしたものがあるんですが,それに対して,俺たちは真面目に描いているんだ,こんないい加減なやつを展示したら俺たち全員が疑われる,ふざけるな,描き直してこいってね.僕はしようがないから,それなら降ろさせてくださいといって全部もって帰ったんですよ.最終的には菊竹清訓さんがとりなしてくれて,出品はしたんですけれどね.
以前から,僕は廃墟とかアイロニーとかパラドックスということを真面目に考えていたんです.こういった概念を建築計画の中に組み込むということは当時やられていないんですよ.
─磯崎さんはわりと早い時期から廃墟に関心をもたれていますね.第14回ミラノ・トリエンナーレに出展した電気的迷宮などもそうですが....あのアーチの廃墟はソビエトパレスのアーチですか.
磯崎 あの時期に出版されていた広島の一連のドキュメントの中に壊れた工場があって,あれはその工場の骨組の写真を切り抜いて崩して使ったものです.
─磯崎さんの廃墟とかアイロニーに対する指向とも関係すると思うのですが,僕らの世代はデビューの頃の磯崎さんの言語に接して,ニヒリズムというか不健康というかそういうほかの建築家にはないものを感じていた.それがとても現代的に思えたんです.ほかの人と較べておめでたくないというような....その点が明らかに未来の発展を夢見るメタボリズムの人たちと異なるところなんだと思うんです.廃墟に対する意識はいつ頃から芽生えてきたんでしょうか.
磯崎 僕が東大に入った頃に,名前は忘れてしまいましたが,ある同人誌が発行されていまして,僕はそれに挿絵を書いていたんです.それがいつも廃墟のカットばっかり.その雑誌を野間宏さんのところに届けにいったことがあって,そのとき野間さんに,あんた今なにやってるの,と聞かれて,こういう絵描いてますって見せたんです.そうしたら彼から,何で廃墟ばっかり描いてるのと質問された記憶があります.
─自覚しないで描いていたんですね.
磯崎 いわれて気がついた.そのとき彼は,描くならもうちょっと社会主義リアリズムで描けとおっしゃいました.当時はもうすでに「暗い絵」の時代から変わってきた頃ですからね.
イブ・タンギーという画家がいますよね.あの人の,地平線があってオブジェが散らばっているような,あの手のものに非常に関心をもっていましたね.シュールレアリズムなどと廃墟がつながってたように思います.それは一種ニヒリズムといえばニヒリズムなんだけれども,少なくともそういった近代絵画の変化に,自分ではかなり関心もってました.
─近代,現代における建築と他の芸術との決定的な差は何かというと,他の芸術が廃墟とか死とか不安とかいう問題を業病のように内に孕んでいるに対して,建築はそれができないということだと思うんです.建築はそういう暗さをもち得ませんから....しかし磯崎さんの作品だけが,そういった問題を意識しておられる.磯崎さんの空間がもつガラーンという感じに,大袈裟にいうなら死の匂いを嗅ぎとったんです.僕らの世代にとってデビュー当時の磯崎さんがほかと違って見えた要因はそんなところにあるんだろうと思うんです.
磯崎 死の匂いということに対しては僕自身,非常に思うところがあります.だけどそれが自分の仕事ににじみ出るかどうかというのはこれは微妙な問題です.戦争で,それ以外の要因もありますが,肉親やまわりの人間が死んでいく,消えていく.自分の身体が欠落していくような,恐さ,喪失感みたいなものを,あの当時からずっともっています.やっぱりトラウマでしょうか.これがいまだに丹下さんみたいに素直に建築を国家の問題から考えられない原因です.
ポスト広島としての現在
─丹下さんは広島という廃墟,つまり原爆による20世紀の廃墟に直面した世界でただひとりの建築家なんです,広島問題を考えると,ふたつの方向性が出てくる.ひとつは死者への慰霊,建築にできることは死者への慰霊だということがひとつあります.もうひとつは戦争を二度と繰り返さないようにという平和への祈りです.このふたつのどちらかを選択するかということに関しては,丹下さんというよりも社会的にいつももめていたようです.
占領軍は慰霊に反対なわけです.慰霊をするということは,加害者の存在を認めることになるからです.いっぽう日本側は,アメリカ人が慰霊碑をつくるのを許さない.それで結局イサム・ノグチは外されるんです.アメリカ人のつくったもので死者の魂が慰められるかという岸田さんの一声で飛ぶわけです.まわりでそういうことがいろいろと起こる中で,丹下さんは基本的な方向を慰霊から平和への祈りへシフトしていきます.丹下さんは廃墟の上に平和への祈りを見い出していく.ですから磯崎さんが広島の廃墟の上にコラージュした電気的迷宮の計画を出したときに,磯崎さんは広島に対し丹下さんとはまったく違うものを見ているなと....
磯崎 お墓の向こうにピースセンターの妻面が見える写真がありますね.僕はあのイメージにシンパシーを感じます.
─あの写真は丹下さんが自分で撮ったものなんです.すごい写真ですね.ただ丹下さんの心の中ではどうだったかというと,それはわからない.当時の記録の中で平和への祈りのための施設にするということは,はっきり書いておられる.慰霊ではないと明言してますし,当初の計画では慰霊碑は右のほうにちょっとつくっておくだけで,目立つ位置には置いていません.
磯崎 僕はイサム・ノグチさんと晩年つき合っていたのでよくわかりますが,イサムさんはあのときの釣鐘状の慰霊碑を最後の最後までやりたかったと思っていたようですね.純粋な作品としてそうおっしゃっていましたが,精神的にも,言葉は悪いのですが,根にもっていたのではないでしょうか.あれも一種のトラウマなんでしょうね.
─それはそうでしょうね.自分はあれだけ日本に憧れ,想っていたのに,アメリカ人のつくったもので死者がうかばれるかっていわれたら....
磯崎 僕は広島を直接体験していないし,かかわってもいないけれど,ポスト広島としてしか僕らの存在はあり得ない,ということを実感しています.自分で建築をつくり始めてから,よりそのことを強く感じるようになりました.
(『新建築』1998年12月号掲載)
お知らせ
この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
再刷プロジェクトへご協力頂いた方、ありがとうございます。現在、印刷の準備を進めております。
再刷への応援(先行申し込み)をしてくださったお客様には優先的にご案内する予定ですが、この度、一般購入申し込みの受付も行うこととなりました。
再刷の折、購入ご検討の方は下記フォームに記入の上、ご送信ください。続報がありましたら、先行申し込みの方に次いで、優先的にご案内をお送り差し上げます。
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