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ジェイコブズから学ぶ─『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』公開記念トークイベント(五十嵐太郎× 山崎亮)レポート

4/28(土)より公開となった映画『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』。公開を記念して「ジェイコブズの視点から読み解く日本のまちづくりの今とこれから」と題して五十嵐太郎さん(建築史・建築批評家)と山崎亮さん(コミュニティデザイナー)によるトークイベントを行いました。本記事ではその模様をお伝えします。




左:五十嵐太郎氏 右:山崎亮氏
目次
●ジェイコブズの声、話し方、振る舞い
●時代の要請者、ロバート・モーゼス
●「汚いから取り除いて新しくすればいい」を否定する
●ジェイコブズから学び「市民参加4.0」へ
●ジェイコブズの時代から現在の「開発」を考える
●「つくる」から「使う」、「解釈する」へ
●Q&Aタイム─
【「開発」に「速度」や「時間」の考え方を取り入れる】【超高齢社会に向けて】【「開発」には「個性」が足りない】【コミュニティアーキテクトへ】


ジェイコブズの声、話し方、振る舞い

山崎亮(以下、山崎) 映画の第一印象はいかがでしたか?

五十嵐太郎(以下、五十嵐) 2011年に鹿島出版会より『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』という本が出版された時、書評を頼まれてふたりの対立構造を詳しく知りました。このふたりが対決したエピソードが面白いなと思っていたので、映画が制作されたと聞いて、期待していました。

今回の映画は、基本的にはこの本に書かれていることをおさらいするような内容でしたね。それがドラマティックに再構成されていました。20世紀の半ばに起きた都市や建築に対する考え方の転換が教科書的に映像で分かりやすく示されていたと思います。

特に有名なプルーイット・アイゴー団地をはじめとして次々に失敗した団地が爆破されるシーンが印象に残りました。これは文章や写真では伝えられず、映像でしか表現できません。こんなにいっぱい破壊されていたんだ...(笑)と思いましたね。

(C)Controlled Demolition Inc


山崎 映像という意味では、動いているジェイコブズを観れたのは新鮮でしたね。どんなおばちゃんだったのだろうか、このおばちゃんは甲高い声なのか図太い声なのか、親しみやすい喋り方をするのかイヤミな喋り方をするのか。

丸い眼鏡かけてニコって笑っている写真をよく見ていたので、愛嬌のあるおばちゃんだったんだろうなとは思っていましたが、今回の映画で動いているジェイコブズを観て、この人柄だから人びとは惹きつけられたんだろうなと納得しましたね。ヒステリックになりすぎないキャラを持っているから、多くの人が一緒になにかやろうかという気が生まれたのではないかなと思います。

ジェイン・ジェイコブズ (C)Library of Congress

五十嵐 確かにそうですね。僕も動いて喋っている彼女を観たのは初めてでした。主著である『アメリカ大都市の死と生』も、おしゃべりするような感じで語りかける本なので、映画を観て彼女の語り口がよく分かりましたね。


時代の要請者、ロバート・モーゼス

五十嵐 本作では敵役になっているロバート・モーゼスも映像では初めて観たのですが、今回の映画を観るとすごく悪いやつに見えますね。ちょっとかわいそうかなと思いました。笑

山崎 だいたい踏ん反り返って映ってましたね。笑

五十嵐 あの姿を観たら感じ悪いなと思っちゃいますよね。笑
ロバート・モーゼスの名前を初めて知ったのは、大学院生の時でした。万博の歴史を調べる機会があって、ニューヨーク世界博で彼は重要な人物として名を馳せていました。この映画でもニューヨーク世界博で出展されていたGeneral Motorsのフューチュラマが登場していましたね。この展示は、自動車のつくりだす未来を見せるというもので、それを引っ張ってきたのがモーゼスでした。

ロバート・モーゼス (C)Library of Congress

山崎 モーゼスは本当に悪いやつなんですか?

五十嵐 僕もモーゼスについてそれほど詳しいわけではないのですが...笑 映画の中ではモーゼスは戦前と戦後で立ち振る舞いが変わったという触れられ方をされていました。モーゼスが関わったニューヨークのリンカーンセンターはそんなに悪くない場所だと思うんですけど、ある時から、団地を大量につくってスラムをクリアランスするとか高速道路をガンガン引くなど、強引にやり始めた辺りから権力者然としてしまって、誰も太刀打ちできない感じになってしまったのでしょうね。

山崎 「もしもジェイコブズがいなかったらニューヨークはずっと退屈だった」と映画のパンフレットなどには書かれていますが、もしもモーゼスがいなかったらニューヨークはもっと危険な街になっていたかもしれない。つまり、モーゼスはある時代にやらなければいけないことをやっていた面もあるだろうけど、流石にやりすぎだよ、というところにジェイコブズみたいな人が対抗した。だからこそ、よいバランスになったのだと言えるかもしれないですね。

五十嵐 モーゼスが活動する背景にあったモダニズムという思想は効率的に供給を行っていくロジックが求められる側面がありました。しかし、おそらくモーゼスは長く権力の座にとどまってしまったので、だんだん時代にそぐわなくなってきたのでしょうね。そのタイミングでジェイコブズが出てきた。1960年代はいろんな形で反体制やフェミニズム的なものが出てきていたので、時代が彼女を押したと言える面もありそうです。


「汚いから取り除いて新しくすればいい」を否定する

五十嵐 もうひとつこの映画で面白いなと思ったのはプロデューサーであるロバート・ハモンドがニューヨーク・ハイラインのNPOの設立者だったことです。ハイラインはニューヨークの古い高架鉄道の線路を誰もが散歩を楽しめる公園に転用したものですが、今では観光名所になっています。巨大な高速道路を潰した話なども映画の中にあったので、彼がプロデュースしたのはなんとなく腑に落ちる感覚がありましたね。

山崎 NPO「Friends of the High Line」をつくったジョシュア・デービッドとロバート・ハモンドのふたりは、歴史を持つ建物や古い構造物にはいろんな人びとの思いが貼り付いているということを感じていたタイプの人でした。ハイラインの中でもチェルシーの部分はゲイがよく集まっていたところで、自分たちなりの思いを高架鉄道に持っていて、夜に勝手に忍び込んでパーティをしたりしていました。だからこそ、彼らは高架鉄道の高さである6〜9mくらい上がるとニューヨークの見え方が変わるということを知っていて、廃線になろうとした時に反対運動を起こしたんです。最初は地元の自治体に相手にされず、しかし、この高架鉄道には価値があるんだということをずっと言い続けて、その結果残ったというものなんですね。そういう意味ではジェイコブズの活動と似ています。
つまり、「汚いから取り除いて新しくすればいい」というわけではないことを重視していた人たちですね。

五十嵐 実際、ハイラインは空中を歩くような感じで楽しいからですね。だから、あれだけ人がきているんだと思います。
そういえば、この映画で初めて知ったんですが「ロウワーマンハッタン計画」では、高速道路の両側にすごい建物が建っている。同時代の建築家ポール・ルドルフのような迫力のあるイメージが登場していましたが、あのような断面パースのプロジェクトがあったんですね。パリのど真ん中に高層のビルを建てるコルビュジェの計画もできなくてよかったプロジェクトでしたが、この計画もニューヨークに実現しなくてよかったです。笑

五十嵐太郎氏


ジェイコブズから学び「市民参加4.0」へ

五十嵐 山崎さんのやられているコミュニティデザインの視点から見るとやはり面白い映画なんですか?

山崎 そうですね。ジェイコブズとその仲間たちがやったことからは、建築や都市の専門家でなくともこれだけ発言したり行動できる、市民参加型で考える、ということへの勇気がもらえますね。

(C)Corbis


ただ注意しなければいけないのは、日本もアメリカも、ジェイコブズが活動した1960・70年代とはだいぶ違う状況を迎えていることです。

日本でいえば、1945年に戦後民主主義が成立し投票できるようになり、国民や市民が自分たちで都市や国を変えることができるかもしれないという機運が出てきました。つまり最初の「市民参加」ですね。しかし、戦後民主主義は体制側によって締め付けられていたことがわかり、1968・69年辺りには学生運動が起こりました。ジェイコブズも1960年代あたりですね。あるいはアメリカで言えば公民権運動のマルコム・Xや環境問題を扱うレイチェル・カーソンなども1960年代くらいです。つまり、市民が、国や都市だったりに反対を唱え始めるというのが、1960〜1970年代くらいに出てきたのです。これが「市民参加2.0」と言えるものです。最初の市民参加でなにかできるだろうと思ってできなかった部分を1970年代くらいの「市民参加2.0」で具体的に声を上げてみた。そんな流れですね。

そしてさらに「市民参加3.0」に上がるのが1995年の阪神・淡路大震災くらいの時。「ボランティア元年」と言われた年ですね。ここでは、反対意見を言うだけではなく国や都市を飛び越え自分たちだけで動き始めようという流れになりました。

山崎亮氏

このような歴史の流れを見ると大体25年ずつでパラダイムシフトが起きています。つまり次は2020年。2020年の時には、AirbnbUber、コワーキングスペースやクラウドファンディングなど、人びとの小さな力を集めて痒いところに手が届くような市民参加型の社会がつくられるでしょう。それはテクノロジーがあるから可能になったことだと思います。行政や企業に参加するのではなく、僕らがなにかのプラットフォームやアプリを使い、お互いにちょっとずつ参加し合えば生活を変えていけるよね、というのが盛り上がるのではないかと思います。

●1945年 戦後民主主義→市民参加1.0
●1970年 学生運動→市民参加2.0
●1995年 ボランティア元年→市民参加3.0
●2020年 Airbnb、Uber、コワーキングスペースなどシェアリングプラットフォーム→市民参加4.0

なので、この映画を観て、いきなりジェイコブズの「市民参加2.0」に戻る必要はありません。

コミュニティデザインの視点で言うと、反対運動をして役人と戦って勝ちました、というのも大事な側面はあると思うのですが、僕らは既に違うやり方を手に入れている。そして、人口減少社会というジェイコブズの時代とは違う背景を持っているからこそ、どんな新しい手を使って自分たちの街をより良いものにしていくのか、そういうことを考えることが重要で、この映画はそのことを考えさせてくれるきっかけになると思います。

五十嵐 確かに東京は既に成熟した都市で、なかなか今からモーゼスくらいの大プロジェクトをやる、というのはないでしょう。1964年の東京オリンピックの時は首都高が新しく通ったり、大改造が起こりましたが、今度のオリンピックはマイナーチェンジなので、そういう感じでもないですよね。


ジェイコブズの時代から現在の「開発」を考える

五十嵐 ジェイコブズの時はvs役人でしたが、今の東京の再開発は民間が相手になるだろうから、ねじれが起きていると言えますね。

山崎 そうですね。そして、そのねじれのもとにレム・コールハースがいる気もします。

五十嵐 それはあるかもしれませんね。ジェイコブズの理論は、1960年代以前のモダニズムの理論を批判的に乗り越えようとするいくつかの流れと共振するものがありました。彼女が言っているポイントのひとつは、用途がある程度混在してたり多様性をつくることが大事だということ。これはモダニズムの、場所を切り分けて、働く場所、住む場所という風にゾーニングをする理論に対抗したものです。

建築では『錯乱のニューヨーク』というレム・コールハースが著した本があります。

この本は都市論ですが建築論でもあり、要するにひとつの建物を単機能ではなく、用途を複合させることの面白さを書いているわけですね。一般的にはポストモダン的な理論として受け入れられていますが、言っていることはジェイコブズと近い部分もあるわけです。

ジェイコブズとコールハースはまったく立場は違いますが、モダニズムのピュアさを批判するという点では似ているところがあります。コールハースは完全に「資本」側ですが。

たとえば、森ビルがやっている開発を例に挙げると、森社長がル・コルビュジェが好きだったので、超高層をつくって下にオープンスペースを設けたわけです。しかし、用途を複合的に入れるのはコールハース流です。つまりル・コルビュジェ+コールハースのプロジェクトになっているわけですね。

山崎 ジェイコブズは専門家には見えない、多様な人たちがいるとその人たちの間に特殊な関係性が生まれたり、新しい活力が生まれたりと、人と人がいるだけで新しい何か、予期せぬものが生まれることに気づいていました。

違う用途が隣り合わせになるとまた違うことが起きるかもしれない。だからなるべく街区も小さく、いろんな用途が混在している街が楽しいんじゃないかと言っていた。コールハースも同じように言っているのですが、僕らは「資本主義」に乗っからざるを得ない時代に生きている。だから、コールハースは逆に資本主義がどんどんオーバードライブしていくことでしかこういう面白い状況は生み出せないのではないかと言います。

現在、大規模な開発をするときにモーゼスのように単機能でつくるというのはほとんどありません。コールハース的にいろんなものを複合させる。しかし、混ぜ合わせた時にそれは本当に私たちが思うような生活の場になりうるのか。どこ行ってもお金を払わないと座れない、友達に会えない、というような街をつくっていて、本当にジェイコブズ的な生活を得られるのか、というのがちょっと心配なところです。

五十嵐 だからこそ、そこでジェイコブズのような「生活者の視点」が重要になるのでしょう。しかし、現在の開発ではそこで暮らしている人やいろんな人が住んでいるという話はあまり話題に上がりません。


「つくる」から「使う」「解釈する」へ


五十嵐 もともとの日本のジェイコブズ受容は黒川紀章さんが前半だけ翻訳したことから始まり、それで長い間ジェイコブズは知られていました。黒川さんも当時は「道の建築」と言っていたので、ジェイコブズがストリートが大事だと言っているのを自分の理論の補強に使おうとしたのでしょう...笑

山崎 「道の建築」は良い本ですよね。ただその解答が街路を建築空間にそのまま持ってくる。実際に道が入ったような建築になっていたのですが...笑

ストリートに注目して、建築理論に入れていこうというのは同時代的に模索されていたわけですね。

五十嵐 黒川さんの中では二元論的な考えがあったのだと思います。西洋は広場、東洋は道、という風に。彼はデビュー当時から都市デザインをやりたかった。だから、晩年に都知事選に出たのも都市をつくるための究極の手段だったのだと思います。

建築家はあくまでつくる側でジェイコブズは使う側、その立場の違いが先ほども言った1960年代のモダニズムからポストモダンへのパラダイムシフトと重なります。モダニズムはどうつくるかのロジックだったのが、1960年代以降はジェイコブズやロバート・ヴェンチューリの著書『建築の多様性と対立性』や『ラスベガス』などが登場し、どういう風に建築や都市を解釈するのかがキーになっています。

また、ケヴィン・リンチの著書『都市のイメージ』も同時代ですね。

この本は、あなたは自分の住んでいる都市をどうイメージしますか?とヒアリングして個人個人のメンタルマップをつくるというもので、これも受容者サイドの理論ですね。そのような時代背景があったからこそ、ジェイコブズはある種の素人の強さで、街を観察したところからカウンター的な提案ができたのでしょう。

山崎 リンチとジェイコブズは同じことを補完して語り合っていたような気がしますね。リンチは、みんなが自分のまち描いてくださいと言って描いた場所を重ねていくと、たとえば、東京だったら東京タワーのようなランドマーク、渋谷のようなノードだったり、みんなが自分の街を描いていくと大体似たようなところを描く。それは大体5つくらいの要素にまとめられるということを提示した。

リンチは都市の物理的な特徴に注目することで人びとが都市をイメージする時に重要な下記の5つの要素を提示した。
●パス(道・通り)
●エッジ(縁・境界)
●ディストリクト(地域)
●ノード(結節点)
●ランドマーク(目印)

そして、みんなが一番思い出しやすいところから再開発していけば、綺麗になったねと言ってもらえやすくなるのではないか、とリンチは言っていますね。

しかし、彼はすごく重要なところをあえて置き去りにしています。『都市のイメージ』では最初に都市におけるアイデンティティ、空間同士のストラクチャー、人びとがそこで過ごした時の意味づけ(ミーニング)の3つが大事だと書かれています。しかし最初の章で、ミーニングは人によって違うから今回の本では置いておいて、アイデンティティとストラクチャーだけで私は語りますというんですね。笑

その結果が上記の5つの要素です。そして、ジェイコブズは逆にミーニングばかり語っています。ミーニングをずっと語り続けていて素人っぽいんですけど、リンチが学術者として置き去りにした部分を補完しているんですね。

五十嵐 そうですね。いわゆる学術論文の枠ではすくい取れない部分ですよね。ジェイコブズがすごかったのは自分の体験談を理論に引き上げていくところなんです。着想の部分はアカデミックなところでは難しいでしょうね。

山崎 主婦のたわごとと言われ、当時批判もいろいろあったみたいですけどね。レイチェル・カーソンも同じようなことを言われていましたね。大いなる素人性を信じていて、素人から見えるものに意味があるはずだと信じていて、そこから共通項を見つけて迫力ある言葉にしていたのが彼女たちなのだと思います。それもこの時代のアプローチのひとつのフォーマットだったのかもしれませんね。

五十嵐 ジェイコブズがこうした活動を始めるきっかけは素朴な疑問でした。建築雑誌の編集部にいて、その時に取材で行った建物について、できる前は建築家が理想を語るのだけど、実際できてみたらなんか違う、という経験から建築家や都市計画家の理論と実際の生活との乖離に注目し、文章を書き始めているんです。がっつり専門にいると言いづらいことを言っているんですよね。

山崎 そうですね。僕も専門を離れたからこそ色々と言えるのかもしれません。笑




Q:エンドユーザーの気持ちを考えて計画するとなると、いっそエンドユーザー自体が建物や都市計画がやればいいのではないかと思ってしまうのですが、これからの計画や開発のあり方に対して何か良い方法や考え方はあるのでしょうか?

山崎 人口減少時代においては、「お金」をかけるのではなく「時間」をかけるという風に考え方をガラッと変えた方が良いと思っています。なぜなら早急につくらなくてはいけない時代ではないからです。資本をたくさん費やして短い期間で計画してつくるのではなく、「時間」という資本があるのだということを行政や専門家が共有すること。これが大事だと思います。

早くやろうとすると必ず失敗してしまいます。ジェイコブズの時代は都市に人が流入してきていて、のんびりできる時代ではなかったから、モーゼスは戦ってでもつくっていかなければならなかったのでしょう。しかし今はその必要がないので、つくっては変えつくっては変え、うまくいったところといかなかったところを行政がちゃんと見ることができる、そして議会が、時間はかかるけど予算は膨大でなくてもいいという進め方を承認してくれるような仕組みにするべきです。この仕組みが回るようになると計画や開発が市民の実感に追いつくようになると思います。つまりこれは「速度」の問題なんです。人間が自然環境を傷つけても自然環境は自己治癒能力を持っているので、数年で元に戻るはずです。しかし、その速度が早くなりすぎると自然環境が治癒するスピードを超えてしまう、それが環境破壊に繋がります。人間は昔から里山に入って伐採していたし、環境の手のくわえ方の速度をある程度の遅さに設定することができたら環境問題は起きない。「開発」に関してもこれと同じ考え方をするべきでしょう。
たとえば、超高層ビルを建てるのは反対運動起きますよね。でも、100mの建物を100年かけて建てますといったら1年間に1mしか上がらないわけですから、反対運動は起きないかもしれない。笑
速度の問題をどう取り扱うかは人口減少時代の計画論においては大事な気がしていて、そこにこそ住民の話し合いの場をつくりあげる隙ができあがるのだと思います。

五十嵐 時間や速度の話はすごく共感します。震災復興や保存問題でも、早く決めると大体よくない結果に終わってしまいます。ヨーロッパの公共建築は建つまでに膨大な時間がかかっていますが、できあがったらしっかり残っていきます。資本主義は設定している時間のスパンが短いし、長期的な視点はありません。公共のプロジェクトも行政の長が変わるという違う時間のスパンがあるので、そこが解除されると自由になると思いますね。大改革になると思いますが。

Q:横浜のみなとみらい地区のような新しいところのコミュニティの築き方はどのように考えればいいのでしょうか?


山崎 みなとみらい地区のようなここ数十年でできた新しい場所はこれからがチャンスだと思っています。みなとみらいでは35歳くらいの時に家を買ったという人が今70歳くらいになり、繋がりがなければ生きていけないということを実感する瞬間が訪れるようになると思います。

こうした問題は世間的には2025年問題と言われています。団塊世代が2025年に一気に75歳以上、つまり後期高齢者になるので、複合的な疾患が出て生活に支障をきたすようになります。しかし、2025年問題は2025年にいきなり発生するわけではありません。2020年あたりから、自分ひとりで生きていけると思っていた人たちが、そうではないかもしれない、と思い始める時代がくると思います。その時に医療保険などを利用しようとしても、財源が足りない。ならば、隣近所や近くの人くらいは自分たちで自分たちの人生を守っていかなければならないよね、という考えが上の世代の人たちから広がっていくような気がしています。

団塊の世代は新しい時代を切り開いて来た人たちなので、新しい超高齢社会というのをもう一回切り開いて欲しいなと思いますね。僕らの世代はそれを手伝ったほうがいいと思います。僕らの問題でもあるので。みなとみらい地区はおそらくここ2,30年で住んだ人たちが繋がりの重要性をわかるようになるので、それを追いかける若い人たちは、その人たちがどこでどう工夫していくのかを見て、自分たちが将来よりクリエイティブで面白い社会をつくるための糧にする方がお得だなと思います。僕らも仕事をするときは少しでも若い人と繋がりをつくれるように仕組みづくりをしていきたいなと考えています。

五十嵐 みなとみらいは人工的につくった大地で、今ようやく立ち上がった状態です。期間限定の小学校をつくるなど、これまでと違うつくり方が起きているので、失敗するか成功するかはわかりませんが、時間をかけて実験場になっていくはずです。


Q:日本的な都市の新陳代謝のあり方について。現在の再開発のあり方やこれからの時代においてどのように多様性を持続しながら都市を新陳代謝していけるのでしょうか?

五十嵐 再開発は似たよう計画が多いのが最大の問題だと思います。次々に焼畑農業的に新しいところを開発していってますよね。1個1個の再開発がもう少し異なる個性を持っていればいいのだと思うのですが...渋谷の再開発に関わっている建築家の内藤廣さんも東京の再開発プロジェクトを山手線のネックレースと位置づけて、各地の個性を残しながら計画を進めるべきだと言っています。そうしないと確実に失敗するプロジェクトも出てくるだろうと。確かに同じよう計画をやったら共倒れになりますし、僕は場所の固有性を強化したり、新しい個性ができるなら再開発はやってもいいと思いますけどね。あまりそういうのがないのが残念ですね。


Q:江戸時代の長屋など日本的な都市のあり方からまちづくりを考えられるのでしょうか?


山崎 江戸時代は借家率が高かったので、日本は戦後に持家政策を進めました。これはローンを返すために働くから経済成長に繋がる、というものでした。これもおそらくモダニズム的な政策だと思います。わかりやすいゴールを設定するというやり方ですね。

その結果、日本の土地はものすごい小割になって領域化が進んでしまった。自分の土地に建てるんだから何建ててもいいでしょという考えの人が出てくるようになりました。しかし、最近は街全体の価値をどう見ていくのか、住民たちが自分たちの街の将来を考えるようになってくるようになっています。その時に借家においてライフステージに応じていろんなところに住まいを変えていけるということがもっと自由にできると新しいコミュニティを編み出すことができるかもしれないなと思います。そのためには、借家の価値を調査できる専門家が重要です。現在の単なる不動産情報だけではなく、近辺のコミュ二ティや建物の構造的な面や材料的な面まで配慮して、それを情報として出せる仕組みが必要だと思います。それを僕らが選び取れるようになるといい。

五十嵐 僕は建築家の力を信じています。特に日本の建築家のレベルは高いと思っています。しかし、それが十分に活かされている気がしないので、それぞれの建築家たちが地域に根ざして自分の周りのエリアの仕事をうまく面倒見るものがあちこちできたら良いなと思います。たとえば、神奈川のtomito architectureは地元の不動産と組んで住みながら、ちょっとずつ地域に手を加えていく、ということをやっています。ああいうのがいいなと思いますね。

丘の町の寺子屋ハウス CASACO/tomito architecture 撮影:新建築社写真部

こんなに建築家がいるんだからそれぞれの街をよくしていけるのではないでしょうか。

山崎 コミュニティアーキテクト、みたいなものですね。金沢21世紀美術館でやっていた展覧会(ジャパン・アーキテクツ 3.11以後の建築)の時も建築家は設計より前に頼まれるようになると良いと話していましたよね。建築家は器用なので、設計案件でもなくても真剣に相談乗ってくれてアイデア出してくれると思います。

五十嵐 そうですね。建築家がよろず屋みたいな存在になればいいのではないかなと思いますね。建築家も遠く離れた場所ではなくて自分の住んでいるところで活動すれば同じ生活者視点で設計できるのではないでしょうか。

(2018年4月30日、ユーロスペースにて)




映画概要
1950年代のNYで、ダウンタウンの大規模な再開発を阻止した一人の女性がいました。 都市論のバイブルといわれる「アメリカ大都市の死と生」の著者、ジェイン・ジェイコブズ。
彼女は、ダウンタウンに住む主婦で、ジャーナリスト。
建築や都市計画については、ほとんど素人でしたが、その天才的な洞察力と行動力で、近代的な都市計画への痛烈な批判とまったく新しい都市論を展開し、ユニークな市民運動を組織しました。
本作は、当時の貴重な記録映像や肉声を織り交ぜ、“常識の天才”ジェイコブズに迫った初の映画です。
都市は誰がつくり、誰のためにあるのか?
私たちが暮らす街の未来を照らす建築ドキュメンタリー!


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