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泥だんご
年を重ねるにつれ、相手の想い(たいせつな人やあるべき社会)に寄り添っているかと考える。
とても良い事を、「買う事」や「勝手に手伝う」ことで自分を美化し承認欲求として存在してはいないか。
自分自身の事だが、表面的な行為を重ねる事で、本質的な「ことがら」に蓋をしているように感じている。
それは、とても手っ取り早く、それは、してあげた感の強いものとして
自分はこんなにもしてやっているんだぞ、と。なりかねない落とし穴。
ここまで来ると、もはや、必要な気付きを手放してしまう。
周りが「気遣う人」と化してしまう。
こどもが、砂から水を含ませ、おにぎりを「むすぶ」ように、 だんごをつくる。
「手と砂」をしっかりつかう。
目と手と足をつかう。。
見えなくなってしまった「人や物」を取り戻さなければ
本来の「人の目」を取り戻せないのではないか。
自分と対峙する。
相手の身になる、言葉では簡単なのだが、分からない人には分かりえない「相手の身」
先ずは、軽微な行為から重ねて来た蓋を剥がし
開かなければ、本質は取り戻せない
みずから、汗を流す事 先を見据える事
手を泥だらけにしながら、つかう事
目を見開く事 磨けば磨くほど輝く
泥だんご
相手の不安やできにくい事を
自然に「むすぶ」ことができれば
もうそれは
「泥」の「だんご」ではない。