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【お題拝借】石田三成の最後の居城 佐和山城 に行く(72歳・元会社員)

群馬県 伊勢崎市にお住いの72歳の元会社員Sさんから頂いたお題を紹介します。

関ケ原の笹尾山の石田三成 陣跡からの景色。戦場全体が見渡せるポジションです。
(写真①)石田三成の最後の居城の佐和山城に向かう前に、彦根駅近くにある開業100年        地元の名店「八千代」で近江牛の牛丼(彦根丼)を食べてエネルギーチャージ。
(写真②)佐和山城跡から井伊家の居城「彦根城」が見えます。               彦根城のバックに見えるのは琵琶湖です。
(写真③)ふもとの龍潭寺の 石田三成さんと記念写真。

次回は、石田三成の最後の居城 佐和山城 に行きたいですね。

72歳・元会社員Sさん

そこで今回は、Sさんから頂いたお題「石田三成の最後の居城 佐和山城」を拝借して、「石田三成の最後の居城 佐和山城に行く」を「未来を輝かせるツール」に変えたいと思います。

【私ならこうする】

石田三成は、
豊臣秀吉の家臣で、
関ケ原の戦いでは実質「西軍の大将」として戦いました。
味方の裏切りもあり家康率いる東軍に敗れた三成は、佐和山城に戻り捲土重来を期そうとしましたが(と言われている)、家康に先手を打たれ(関ヶ原の戦いが終わった翌々日に佐和山城は東軍に囲まれ、三成の父正継、兄正澄、息子重家は自刃)帰る処を失った三成は捕らわれ、京都六条河原で処刑されました。

三成に過ぎたる佐和山の城

2024年の年末が押し迫った12月30日、私は三成が「家康を倒す」という一世一代の戦略を練ったであろう「佐和山城」がどんな処にあって、どんな城だったのかを五感で感じてみたくて、
滋賀県彦根駅に向かいました。
彦根駅の改札を出て、まずは腹ごしらえと周りを見渡すと「創業100年八千代」の看板が目に飛び込んできたので、迷わず入店。お店の人に勧められるままに地元の彦根牛を使った彦根丼という名の牛丼(写真①)を食べていよいよ城に向けて出発。
 
駅から20分ほど歩くと、城山の南側登り口に到着。上り道は急な坂で狭い箇所もあり用心しながら登ること30分、息も切れそうになったところで、標高230メートルの誰も居ない静かな佐和山城の本丸跡に着きました。
三成最後の居城 佐和山城は、
三成に過ぎたるものが2つあり、島の右近に佐和山の城」という言葉が 残っているほど
本丸が五層からなる立派な城であったと言われています。
(ちなみに島の右近とは、三成が三顧の礼で迎えた優れた武将です)
山頂の本丸跡から北側の琵琶湖方面を見ると井伊家の居城「彦根城」と  「琵琶湖」がくっきり見えます(写真②)
立派な彦根城を見ながら
彦根城の建設部材の多くは佐和山城を破壊した後の部材を活用した、
という話を思い出しました。
 
本丸跡に30分ほど逗留して登山道と反対側の龍潭寺口(りょうたんじ )口から下山することに。

三成の大きな夢

龍潭寺口も急で狭い道で下山、ふもとの龍潭寺に到着してお参りをした後、山門に向かうと石田三成像がありました。
彼の顔立ちは、
教科書などでよく見る「肖像画」と比べて、端正で、キリっとしています(写真③)
 
石田三成像に対面して、
私は彼に、
「アナタは、ここで一世一代の戦略を練って実行に移したが、しかし事は 机上の戦略通りに進まず、手練手管の家康に敗れた」
「でもアナタは、やらずに後悔を残すより、行動を起こして結果を出した」
「だからアナタに、悔いはなかったのではないか」
そんなことを心の中で呟きながら
没後424年(没年1600年11月6日)経った彼に挨拶させて頂きました。
 
三成さんどうか安らかに。
 
以上、長文にお付き合いいただきありがとうございました。
 
アナタの輝く未来のために!


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