林檎が突き刺さる前に。/カフカの『変身』と、ニーゴの「ザムザ」
こんにちは。桜小路いをりです。
リズムゲーム「プロセカ」のゲーム内ユニットに、「25時、ナイトコードで。」というユニットがあります。
その書き下ろし曲である「ザムザ」。
ボカロPのてにをはさんが提供したこの曲が、私はとても好きです。
「ザムザ」の歌詞を拾ってみると、モチーフになっているのは、フランツ・カフカの『変身』でした。
相変わらず苦手意識のある海外の小説。
しかし、ここでこのご縁を逃すわけにはいかない! と思い、早速手に取りました。
今回の記事は、プロセカのゲーム内ユニットで、ネット音楽サークル「25時、ナイトコードで。」(以下、略称の「ニーゴ」)のストーリーを、「ザムザ」と『変身』を絡めつつ、考察していきます。
始めに言っておくと、今回の記事は約6000字です。
大変長くなっていますので、お時間のあるときにぜひお付き合いください。
カフカの『変身』、そしてプロセカのニーゴのストーリーのネタバレを含みますので、未読の方はご注意を。
また、混乱しそうなので、この記事ではニーゴのメンバーは全員呼び捨てです。ご了承ください。
(実は、私は二次元キャラにも普段は常に「ちゃん付け」です。)
それでは、ニーゴの説明を挟んでから考察に入っていきます。
*ニーゴについて
プロセカをご存知ない方にも分かりやすいよう、「ニーゴ」こと「25時、ナイトコードで。」について少しご紹介。
(既にご存じの方は飛ばしてください。)
ニーゴは、「ナイトコード」というチャットサービスに、25時に集まって作業をしている音楽サークル。
メンバーは全員女子高校生で、作曲、作詞、MVの制作を全て自分たちでこなしています。
作曲を担当するのは、宵崎奏。
作詞を担当するのは、朝比奈まふゆ。
MVのイラスト担当は、東雲絵名。
MVの動画編集を担当しているのが、暁山瑞希。
以上、4人がニーゴのメンバーです。
イベント「イミシブル・ディスコード」について
「ザムザ」が書き下ろされた、イベント「イミシブル・ディスコード」のストーリーでは、まふゆが隠れて音楽活動をしていたことが、ついに母親にバレてしまいます。
まふゆの母親からの接触をきっかけに、サークルの中心人物である奏は、まふゆの音楽活動について、まふゆの母親と一対一で話しをします。しかし、まふゆの素を知らない母親は、音楽活動を否定するばかり。
奏は、「まふゆに音楽サークルを辞めるよう言ってほしい」という要求を断り、「私はあなたを信用できない」と言い放ちます。
このイベントで、初めてまふゆの母親の立ち絵と声が解禁された、ということで……。
一見、すごく優しそうなのに、その言葉と声の端々からは、否定されることを微塵も想像していないような、有無を言わせない静かな威圧を感じました。
また、奏に送られてきた、まふゆの母親からのこのメッセージが、とても印象に残っています。
「まふゆが一緒に音楽活動をしたいと思ってくれているなら、私からは何も言えない」と、奏が送った後のメッセージです。
あまりにも、奏の心に突き刺さる言葉なのではないかと思います。
奏は、自分のせいで父親は音楽が作れなくなった、父親の未来を奪ってしまったと思っています。
これまでの楽曲でも、奏が歌うパートには「殺さぬように」というフレーズが振られていたりするなど、今もなお、かつての経験が強く残っているようにも見えたり。
なので、偶然とは言え、まふゆの母親のこのメッセージは、父親のことを想起させたのではないでしょうか。
だから、毅然とした態度でメッセージを送った後も、「これでいいはず……だよね」と自信なさげだったのだと思います。
かつて、父親のために、父親がきっと喜ぶと思ってしたことが、巡り巡って父親の未来を奪ってしまった奏。
しかし、奏のこれまでには、確かに両親から受けた愛情がありました。
一方、母親のために、母親が喜ぶと思って常に選択し、行動し、生きてきたせいで、本当の自分や本当にやりたいことを奪われてしまっているまふゆ。そこでは、愛情を感じることができていませんでした。
改めて、この2人の対照的な部分と共通する部分が、浮き彫りになるストーリーだったなと思います。
また、このイベントでは、ニーゴの「誰もいないセカイ」に、新たにボカロのKAITOが仲間入りしました。
KAITOは、「怒り」の感情を強く持っており、まふゆに対して「母親に反抗しろ」「噛みつけ」と訴えます。
『変身』と「ザムザ」
『変身』は、朝起きると突如、虫の姿になっていたグレゴール・ザムザの物語。
彼が虫になったところから、物語は幕を開けます。
その現実を直視できない両親、嫌悪感を懐きつつもグレゴールに食事を持ってくる妹。グレゴールが虫になったことで変わっていくザムザ家の姿を、グレゴール自身の視点で描いています。
この物語の最後、グレゴールは、父親に投げつけられた林檎が背中に刺さり、しばらく満足に動けない日々が続いて亡くなってしまいます。
「ザムザ」とリンクする部分は、この「林檎を投げつける」という描写です。
『変身』の中でグレゴールに林檎を投げつけたのは父親で、それを止めたのは母親でした。
しかし、ニーゴのストーリーの中で、まふゆは、母親に林檎を投げつけられている状態。すなわち、一方的に傷つけられている状態です。
『変身』で描かれている、グレゴールが林檎を投げつけられるシーン。これは、まふゆが母親に求める姿なのではないかと思います。
「お母さんは、きっと私のことを本当に想ってくれている」と信じたいまふゆは、「自分が林檎を投げつけられたら、母親は止めてくれる」と思っている。
しかし、実際に林檎を投げつけているのは、他でもないまふゆの母親です。
また、「林檎」については、まふゆの幼少期の中で印象的な描写があります。
まふゆが熱を出したとき、母親が林檎を食べさせてくれた、という思い出の回想です。
まふゆにとって、その記憶は、母親からもらった確かな温かさであり、「林檎」はその愛情を象徴していると考えられます。
「林檎を投げつけないで」という歌詞からは、愛情が空回って林檎が凶器になっている状態、というふうにも捉えられる気がします。
また、「あの思い出の中にある温かさまで、なかったことにしないで」という叫びのようにも感じます。
ここで、『変身』の中の、私がいちばんドキッとした文章を少し引用。グレゴールの妹・グレーテの心情です。
こんなふうに思っていたグレーテですが、「もうグレゴールを見捨てるべきだ」と両親に提案したのもまた、彼女でした。
ここまで極端ではないにしろ、私は、思わずまふゆの母親をグレーテに重ねてしまいます。
虫になってしまった哀れな兄を気にかける妹、という立場に酔っているような状態のグレーテ。
意識的にか無意識にか、まふゆの想いを抑えて「良い子で優等生の娘を育てる、良い母親」という立場を過剰に大切にする、まふゆの母親。
(まふゆの母親は、地域の集まりなどに積極的に参加しているような描写もあり、対外的な見られ方を非常に気にしているようにも思います。)
まふゆは、グレゴールのように見捨てられないよう、懸命に「良い子」を演じてきました。
しかし、今まで自分の感情を殺して生きてきたせいで、本当の自分が分からない状態に陥って、苦しんでいます。
「ザムザ」のこの歌詞、まふゆが抱える息苦しさや虚無感が克明に描き出されていて、改めてまふゆの家の「冷たさ」を感じます。
冷淡とはまた違う、表面上は理想的に見えるのに、温度の伴っていない家族、というのでしょうか。
しかし、その中でも、まふゆはサークル活動を通して、「ニーゴのみんなと曲を作りたい」という想いを自覚できるようになっていました。
「林檎を投げつけられている」状態が、ずっと続いているまふゆ。
その「林檎」は、もしかしたらまふゆの心の本当に大切な部分に、いつか突き刺さってしまうかもしれません。
きっと、それを阻止するのが、「ニーゴ」であり、その中でも、「まふゆを救うための曲を作り続ける」と言い切った奏なのだと思います。
まふゆが、「グレゴール・ザムザ」になる前に。
彼のように、「林檎」が突き刺さって、苦しんで、家族の温かさや、自身が家族に向ける愛情に想いを馳せながら、消えてしまうことがないように。
そんな切実な想いも、「ザムザ」からは感じました。
「光」、それは希望や夢にも重なるものだと思います。
それが、「1時の方角にある」ということは、いつも夜中の1時(25時)に動き出す「25時、ナイトコードで。」こそ、まふゆの希望になり得る。
まふゆ自身からしてみれば、「良い子」を演じる今の自分こそ、虫になったグレゴールのような、「これは本当の私じゃない」という存在かもしれません。
でも、いつかきっと、その尻尾すら脱ぎ捨てて、「本当の自分」でいられる日がくる。
だから、「今は尻尾を引き摺りゆけ」。もっと言えば、「生きることをあきらめないで」と、この歌詞では叫んでいるのではないでしょうか。
普段は優しくて温かな性格の奏が、「云うなよ」と少し強い口調の歌詞を歌うと、すごくドキッとします。
でも、奏にとっては、それだけ強く訴えたい言葉なんだろうなと思ったり。
「現実はもういい」、それは、「ニーゴでさえ自分の素を出せたらそれでいい」という、まふゆの精一杯の妥協かもしれません。
息がしにくい現実を生きていく中で、時折ニーゴで息を吸うことができるなら、もうそれで十分、という諦めすら感じます。
でも、奏は、ニーゴのメンバーは、現実からもまふゆを救いたいと思い、「“現実はもういい”なんて言わないで」と訴える。
この関係性は、サークル仲間や友達を超えて、なんだか家族のようにも思えます。
それはきっと、まふゆ以外のメンバーが、形は違えど、温かな家庭で育ったからこそ、できることなのではないでしょうか。
もう思い出の中でしか家族が揃うことはないけれど、音楽が好きな両親に、確かな愛情を注がれて生きてきた奏。
努力を肯定してくれる母親、弟、愛情ゆえに画家になることを勧めない父親に見守られながら、それでも絵を描き続けることができている絵名。
学校に居場所がなくなり、苦しい葛藤を抱え続ける中で、逃げ場所になり、支えになってくれた家族がいる瑞希。
そんな彼女たちだからこそ、それぞれが家族にしてもらったことを、注がれてきた温かさを、まふゆにも分けてあげたいと強く思えるのではないでしょうか。
「シャガの花」について
「ザムザ」が書き下ろされたイベント「イミシブル・ディスコード」では、随所でシャガの花がモチーフになっていました。
「ザムザ」にも、「シャガの花に毒されても」という歌詞があります。
シャガの花の花言葉は、「反抗」「決心」「私を認めて」です。
「反抗」は、ボカロのKAITOがまふゆに求める姿なのかなと感じます。
母親に「反抗」して、「私はこうする」とはっきり言え、という、厳しいようでいてまふゆのことを想った、悲痛なほど切実なメッセージです。
「決心」は、奏が「まふゆを救う」という想いをさらに強めたこと、また、「まふゆの母親が何と言おうと、まふゆの傍にいる」という決意にも通じます。
そして、「私を認めて」は、まふゆから母親に対しての想いだと推測します。
母親が望む虚像の「私」ではなく、やりたいこと、好きなことに心の底から向き合う「『私』を認めて」。
また、シャガの花は、紫色の輪のような模様の中に、オレンジ色の炎のような柄が印象的です。
紫色は、まふゆのイメージカラー。
その内側にオレンジ色の模様が入っている、ということは、これまで自分の感情にも他人の感情にも鈍感で、「分からない」ばかりが口癖だったまふゆの心に、何かしらの火が灯った、という解釈ができる気がします。
ちなみに、歌詞の「毒される」とは、「悪い影響を受けること」です。
「シャガの花に毒されても」、これは、まふゆの母親の目線が入っているのではないかと思います。
まふゆの母親からしてみれば、ニーゴのメンバーはまふゆを唆す存在。
でも、たとえ「毒された」と言われたとしても、まふゆが母親に反抗するようになったとしても、それがまふゆのためになる。
ならば、悪役になることすら厭わないという「決心」にも捉えられる気がします。
そういえば、このイベントの新規カードで描かれているニーゴのメンバーの姿も、まふゆの母親目線のものなのではないか、という説が出ていました。
ぞっとするほど美麗なこのイラストたちにも、シャガの花がいくつも描かれています。
まとめ
カフカの『変身』は、さすが不条理文学というだけあって、グレゴール自身への救いはひとつたりともありません。
でも、きっと、ニーゴはそうじゃない。
まふゆちゃんには、まふゆちゃんのことを心の底から気にかけて、救おうとしてくれる仲間がいて、その存在がきっと、支えになり、逃げ場所になり得る。
グレゴールのように、逃げ場所もなく、狭い部屋にひとりきりで閉じこもっているわけではない。
まとめると、私は、そんなふうに考察をしました。
考察をしている最中、ずっと頭に「ザムザ」が流れていて、改めて、こんなに素敵な曲に出会えたことがすごく嬉しいです。
カフカの『変身』も、今読めてよかった。
最後に、ニーゴのこれからに光があることを祈って……! この記事はおしまいにします。
また私のnoteで、お会いできたら嬉しいです。
画像出典:『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』
SEGA・Colorful Palette・Crypton Future Media
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。