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「とろ火」で生きていく。
「とろ火で生きていていいんだよ、と紙ヒコーキに書いて、完璧主義だった私に飛ばしてあげられたらいいのに」
最近、ふとそう思う瞬間がありました。
家庭科の授業で習ったのか、それとも母の本棚から拝借した料理本で見たのか、「とろ火」という言葉は、小学生の頃に覚えた記憶があります。
強火、中火、弱火、そして、「とろ火」。火がぎりぎり消えない程度の、ごく弱い火加減のことです。
始めは、「とろ火」という柔らかな語感が素敵で、印象に残っていました。
でも、最近は、お料理のときの火加減を表す言葉としてだけではなく、「生きていくうえでの火力」を表す指標として、「とろ火」という言葉が好きです。
例えば、推しに対する熱量の高さを表す「強火オタク」という表現があります。
私は、「強火オタク」があるなら、「とろ火オタク」もあっていいと思うんです。
すごく熱量が高いわけではないけれど、歌番組に出演したら見る、とか。
好みのタイプの曲がリリースされたときにはCDを買う、とか。
そのくらい、ゆるっとした推し活をする人のことを表す言葉として、「とろ火オタク」というジャンルがあってもいいのではないかな、と。
今は、本当に色々なエンターテインメントが世の中にあふれています。
その中からたったひとつの何か、たったひとりの誰かを深く推すことも、もちろん素敵なことです。
でも、色々なジャンルに浅く広く触れて、「好き」がたくさんあることも、同じくらい素敵なことなのではないでしょうか。
私は好きなものがたくさんあって、自慢の推しが何人もいるので、基本は「とろ火オタク」だったりします。
「強火」と「とろ火」のどちらがいい、どちらが悪い、ということはありません。
どんなお料理にも、それぞれに合った火加減があるように、その人その人によって、「好き」へのちょうどいい火加減はきっと違うから。
「強火」がしっくりくる人はその火加減で、「とろ火」が心地いい人はその火加減で、推しに向き合っていけばいいと思うんです。
それは、「推しへの熱量」だけでなく、「人生への向き合い方」においても、きっと同じ。
さらに言えば、お料理の工程ごとに火加減を変える必要があるように、人生の折々で、ちょうどいい火加減は変わっていくはずです。
「強火」で思い切り頑張れるときもあれば、「とろ火」でのんびりと気ままに過ごすことが必要なときもあります。
大切なのは、その火を、ぱたりと消してしまわないこと。
時には「とろ火」を上手く使うこと。
自分の中の火が消えないように、たとえ儚くても、絶えず光り、燃え続けるようにすること。
その火を燃やし続けるための燃料は、果てしなくあるものではないから。
心地よく過ごし続けるために、まずは火加減の調整を覚えることが、大切なのではないかなと思います。
なんて、完璧主義だった過去の私がこの文章を読んだら、驚くんだろうな、きっと。
過去の私から未来の私に言葉を書き残して贈ることはできるけど、その逆はできないことが少し悔しい、今日この頃です。
今回お借りした見出し画像は、ロウソクのイラストです。日常的にすることではないけれど、ロウソクの優しく揺れる炎を眺めていると、心がほっと落ち着きます。この記事も、忙しなく生きる誰かにとって、そんなロウソクの火のような存在になれますように。
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