人間について1

前回書いた芝居の感想のなかに、私は押し付けがましい芝居が嫌いだと書きましたが、これは何も芝居に限ったことではありません。

押し付けがましいとは、いわゆる「マウント」を取るような他者への接し方にも通じます。

あるいは頼んでもいないのに「愚かな君を教え導いてあげよう」というような。

嫌ですね。

これは一種の「傲慢さ」や相手に対する「軽率さ」でもあるのですが、むしろ私にはその人の「弱さ」の暴露に感じられてしまうのです。
それも無自覚な。

自分が恣意的に軽んじられるという屈辱感ももちろんあるのですが、私はそれよりも、相手の無自覚な油断を見せつけられるというのがとにかく不快の一言に尽きる。

人は誰しも自然の生存本能にもとづいて、自己保身の欲求、あるいは他者を凌ごうとする競争心があるでしょう。

ですから、いわゆる「マウントを取る」「優位性を誇示する」というのは、自己防衛本能すなわち保身の欲求のある種の現れです。

しかもその人自身にもおそらく自覚なく現れていると感じさせられることが多い。なにせ本能由来ですから。

そして、その他者への「現れ」が多ければ多いほど、その人の自己防衛本能は強いと言えるでしょう。

つまり、それだけ劣等感も強いということです。

なので、自分よりも立場が下と思われる者、弱そうな者、劣っていそうな者を無意識に探して、己の優位性を誇示し、安心を確保しているのです。

しかしながら人間も所詮生物である以上、仕方のない面もあります。
生き物の欲求として、生存本能ほどつよいものはない。

「戦争」すなわち「暴力による己が意思の強要の応酬」その淵源はおそらくそんなものだろうと私は思っています。

暴力はもっとも直接的な「マウント」なのですから。

話を戻すと、人間は生存本能に支配される生物である以上、内心で他者を脅威かそうでないか、つまり自分より上か下かと見てしまう傾向は消しようがない。

だが、その外部への、他者に対しての「現れ」はすくなくとも自覚的にコントロールできるはずです。

せめて自覚的でありたい。

「マウント」のようなそれは場合によっては、相手との関係の断絶になったり、あるいは敵に回す結果になることもあるでしょうが、すくなくともその覚悟をしているということですから。

それにすら無自覚な「鈍さ」には、私はまったく付き合いきれない。
そういう人間にかぎって、こちらが我慢に我慢を重ねた結果、反撃に転じると無様に狼狽するのです。正視に耐えません。

相手と自分のあいだに、恣意的な上下関係を介することなく、互いを人間として尊重し、対等に接することのほうが全然、有意義な「対話」ができるはずである。

対話によって己とは違う他者の考えを知ることができるし、相互に新しい認識を得られる貴重な機会ともなる。

それは理想論ではあるのでしょう。

そういう場面ももちろんありますが、人間とはつねにそんなに綺麗な存在ではあり得ない。

そして残念ながら、私もまた人である以上、例外ではあり得ません。

私はせめて私の嫌いな私にならないよう、
せいぜい、持続的に己に自覚的たらんとするよりほかに仕方がない。

人は相互に不快なる存在であることを簡単に抜け出ることはできません。

私が嫌だ、不快だということも「お互い様」なのは当然です。

だからこそ、そこに自らを省みることの切実さがあるとも思うのです。

さて、以上も私の考えであるにすぎません。

私は現在こう考えているというにすぎません。

これを読んでいる方の共感や同意を求めているわけではありませんし、
ましてやすべての人間共通の「正解」を提示しようなどというわけでもまったくない。

「答え」は人それぞれなのですから。

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