新城勇の断片記3

さて、高校3年生の私は、大学受験で全滅しましたが、さりとてすぐに社会に出る決断もできず、親の脛をかじる形で浪人することになります。

当時、私は教科としての英語が非常に苦手でした。

私の性向として、自分が興味あることには理解も覚えも速いのですが、興味がないことに関しては、特に少年のころは極端に駄目で、学校の試験は教科によって満点か赤点かという感じでした。

なので親には「出来るはずなのに手を抜いている」といつも叱られていましたが、自分としては手を抜いている感覚はなく、当時、分からない科目は本当に分からなかったのです。

英語はその駄目なほうで、試験を受ければほとんど赤点。高校時代は補習などの救済措置でどうにか進級していました。

これではいかに得意な文系に絞ったところで大学など受かるわけがない。

結果、一浪しても志望大学には全て不合格。

その後、一時、夜間の大学の法学部に籍をおいていましたが、砂を噛むような法律の勉強にもまったく興味を持てず、親に頼み込んで文学部を再受験させてもらうことになりました。

いろいろ調べてみると、文学部なら苦手の英語なしで受験できる私立大学がいくつかありました。

今度こそ失敗は許されないので、そのなかから、学部学科の教育内容や教授陣、研究実績、大学の沿革なども吟味して、かつ自分でも確実に合格できると思われる一校に絞りました。

そして入学したのが仏教系のある大学です。

世間的には全く無名の小さな大学ですが、旧制以来の歴史は古く、東京都心に近い単一のキャンパスで4年間学べ、学費も当時、比較的安かった。

学部は仏教の大学らしく人文系の2つだけ。
学生数も少ないが、そのぶん教育上の面倒見はよいとのことでした。

ただ一流と言えるような就職実績は皆無。
(と書くと怒られそうですが実際そうだった)

そもそも成り立ちからして、一般社会で立身出世をするための大学ではない。
ひらたく言えば、設立宗派のお寺の跡取りのための大学です。

いわゆる「坊さん大学」で、教授の大半は母校出身のお坊さんですが、さすがお坊さんだけに教育熱心な先生は多かった。

こじんまりとしたキャンパスでは時に読経の声が聞こえてきたり、東南アジアからの留学生がガンジーみたいな格好でそぞろ歩いていたりと、全体的に浮世離れした雰囲気が漂っていましたが、

校舎は古く、学内には年を経た樹々が生い繁り、かなり古風な学園で、当時団塊ジュニアの入学ラッシュでどこも学生があふれんばかりだった有名マンモス大学群とは一風違う、静かな落ち着いた校風が、私は気に入っていました。

まあ、活気に欠けているとも言えましたが。

またもや怒られそうですが、口さがない仲間内では「ここは世捨て人の来る大学だからなあ」などと言い合っていました。

私が入るより前の昭和の時代の話ですが、さる宗派の高僧である理事長が公式の大学報の冒頭で「本学はサラリーマンを養成するような大学ではない」と断言していましたから。
それを大学図書館で読んだとき私は、世間一般の受験生を集めようなどという気のまったくないその発言に、いっそ爽やかな印象すらおぼえました。

(しかし現在は少子化や時代の移り変わりで大学経営も大変なようで、度重なる学部の改組と増設、学生定員の大幅増、キャンパス再開発などで母校の様相は激変したと聞きます)

私が入ったのは文学部の「国際文化学科」という学科で、その数年前まではオーソドックスな「哲学科」でしたが、それを学際的に拡充する形で再編した学科でした。

1〜2年次でいわゆる一般教養科目だけでなく、人文系諸分野にわたる専門科目もいろいろ選択でき、3年次から自分の主専攻(卒業論文を書く分野)を選ぶという、カリキュラムの幅広い学科でした。

(私の卒業後にまた何度か改編され、現在は学科の名称も、カリキュラムの制度も変わってしまいました)

文学部には、ほかに日本文学科、史学科がありましたが、それらははじめから専門性の高い学科に思え、それより最初は人文系を幅広く学びながら2年後に、自分の興味ある専攻を選ぶほうが私には面白そうに思えたのです。

つい母校について長々と語ってしまいましたが、それだけこの学生時代は私にとって懐かしく、また貴重な日々でした。

私にとって人生における幾つかの決定的な出会いが、この学生時代にありました。

まだ俳優のハの字も出てこないですが、
続きはまた次回。

〈続く〉

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