舞台「MUJINA」 感想 その2

私にとって観劇とは、非常に特別な時間である。

いまの私には、観劇はかなりの「贅沢」と言ってよい。行けるとしてもせいぜい月に1〜2回。それも毎月行けるというわけでもない。

したがって、どうしても、厳選せざるを得ない。

「これだけは是非、観なくては」と思えるものだけを観に行っている。

それでも観てみたら、正直つまらないこともあるし、期待どおり面白いこともある。
あたりまえのことだが。

この芝居は面白かった。

まず劇場のロケーションからして良かった。

駅からのちょっと遠い道すがら、運河を渡り、人けのない巨大倉庫を仰ぎながら、大型トラックが激しく行き交う大通りの向こうの空間には、どこへ出航するのか知らぬ貨物船のマストがかすかに見えてくる。

何か、非日常への入口を予感させるような、日常の居場所からどんどん外れていく感じ。

観劇とは毎日繰り返される日常から、束の間の「非日常」に足を踏み入れることである。

その「特別」ともいえる場所がこの先に待っているのだということを、歩きながら、この身をもって感じさせられたのである。

そして前回述べたように、コンクリート剥き出しになったような、殺風景な大通り沿いの大型マンションの一室に私は入った。

そこで繰り広げられる若者たちの悲喜交々の群像は、私を劇中に引き込んでゆき、一つのリアリティをもって自らをも省みさせるのであった。

一見軽妙な会話の流れに安心していると、瞬間、冷んやりとした現実を提示しているような。しかし決してそこに「居つく」ことなく、自然に会話は流れている。

こういう芝居が好きだ。
押し付けがましい芝居が私は嫌いだから。

若者たちの葛藤のドラマ、一連の波風が過ぎ去っていったあと、現れるのは、オーナーと同年輩の古い友人である。

もちろん、この二人はすでに「若者」ではない。

だからといって、若者たちの葛藤を思いやるわけでもなければ、もちろん蔑むでもなく、
ましてや、懐かしむわけでもない。

二人はただ、いま思うところを語らう。
静かに、時には激情すらともなって。

そこには、若い日を経たある二人の人間の、人生における切実な「現れ」として感じられるようなダイナミズムが確かにあったのである。


観劇の帰り道、運河にかかる橋を渡っていると、行きはあれほど強く照りつけていた陽が、すでに傾いているように感じられた。

晩夏である。徐々に陽も短くなってきている。

芝居の余韻が頭のなかに漂っている。
そして面白い芝居は観終わったあと、決まって何かを私に語りかけてくる。

(この余韻を大事に取っておきたいので、観劇後の面会などが、私は少々苦手である)

この私のアタマのなかの「語らい」を静かに楽しむために、どこかの立ち呑み屋にでも寄っていこうか。

これも贅沢なことだが、「特別な一日」は最後の最後まで味わい尽くすべきものであろう。

そう思って、どこで途中下車しようか思案しながら、私は京浜東北線に乗り込むのであった。

〈了〉

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