新城勇の断片記4

高校卒業時、興味があった仕事は自衛官か俳優だったとは以前書きましたが、

当時の私は、そのまえに、少年期から思春期にかけて考え続けていたことをもっと深めたいと思っていました。

そのために大学で学びたいという気持ちを抑えることが出来なかったのです。

横文字だけはどうしても理解できないという私の偏向性のため曲折ありましたが、最終的にはどうにか自分の希望する学科内容をそなえた大学に入学できました。

回り道をしましたが何も言わず学資を出してくれたことに関して、親には感謝しかありません。

この時点では、私はまだその先の進路について、明確に決めていませんでした。

とにかく、ここで大いに学べば、おのずと自分の道が見えてくるだろうと思っていたのです。

入学した4月、学科のオリエンテーションに出席すると、そこでは専任教員の先生が一堂に会して、新入生に歓迎の挨拶をしてくれました。

学科長の教授が「本日、残念ながらお仕事のため、江藤淳先生がご不在となっております。諸君のなかにはもちろんご存知の人もいるでしょうが、戦後を代表する文芸評論家のお一人です」と仰いました。

「戦後」を代表する評論家か、凄い先生がいるんだなあと思いました。

そのとき、江藤淳先生のお名前は、高校の国語資料集などでちょっと見たような記憶があるかないか。

帰りに早速、図書館で江藤先生の著書を検索してみました。

沢山あるなかからとりあえず借り出したのは、『閉ざされた言語空間』だったと思います。

第二次世界大戦敗戦後の占領期における、GHQの「検閲」の問題を、その後の日本の言論空間のある種の「欺瞞」あるいは「歪み」の源の一つと問いてゆく。

非常に興味深く読みました。

それまでに私が考え続けていたことにも深く関わることで、まさに衝撃的な出会いでした。

配られた講義要項で探してみると、先生は学部3〜4年次と大学院で「比較文学」の演習のみを担当しておられました。

そこには「比較文学とは何か」「英米文学と日本文学」「翻訳という問題」などの文字がならんでおり、英語がまったく駄目な私は、肩を落とすよりほかありませんでした。

しかし3年生になるまでに、これまでの自分を覆すような勉強をして、なんとか、この先生の教えをうけることはできないものか。

ある日、学内を歩いていると、その江藤先生とすれ違いました。

「あ、写真どおりだ」と、すぐに分かりました。

なんともいえないオーラがありました。かなり小柄なのですが、仕立ての良いグレーの三揃いの背広で姿勢よく歩かれる姿には、気品とともに一種の気迫のようなものすら感じました。

(私の方が緊張していただけなのかもしれませんが)

もちろん面識などありませんが、先生の目を見て会釈をすると、先生はこちらを見て頷くように挨拶を返してくださいました。

「性根を据えて勉強しなければ。この先生の演習は間違いなく生半可なものではないぞ」

先生は講義要項で「私の演習を履修する者は、必ず、学則に従って履修登録すること」とコメントしており、いずれにしろ飛び入りなどは許されない。

3年生にならなければ履修できないので、それまでに演習についていけるよう、自分の足りないところを猛勉強しようと決意しました。

そして、必ず先生の教えをうけるのだと。

しかし、それが実現することはなかったのです。

〈続く〉

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