(音楽)アビシャイコーエンが好き
イスラエルについて何か話せるほどの博学ではない。チックコリアトリオで名を馳せたベーシストアビシャイコーエン。イスラエルジャズの重鎮と呼ばれている。
あくまでもチックコリアのアルバムである。だけれども、私の耳はベースに持っていかれてしまう。8分の6拍子を駆け巡る低音。迷わない。アビシャイコーエンは決して迷わない。その指は力強く強靭なリズムを構築していく。世界の中心に自分がいるかのように。音楽は自分のためにあるかのように弾くというといいすぎだろうか。弦は無駄な振動を起こさずに、ピアノのように正確なトーンを時間に切り刻んでいく。ピアノソロ、ベースソロ、ドラムソロ、テーマとジャズの文脈で語られるがそれがなんであろう。ジャズは溶け始める。アビシャイコーエンの指によって。
しかし、そんなアビシャイコーエンも、まるで自分がバンドマスターであるかのようにイニシアティブを右手に携えたのだが、自らのアルバムで異変が起きる。2008年のトリオアルバム「Seattle」である。ピアノはシャイマエストロ。
そのベースの強靭さは何も変わらない。揺るがないリズム。重量を吸い取るような低音。しかし、そのプレイを持ってもシャイマエストロの空間を広げるピアノに耳を奪われる。ど真ん中にドシンッと置かれるベースの上で少しもったりとしたピアノが自由に舞踊するかのよう。このベースがあるからピアノはこれほど自由になれると考えることもできる。そういう意味ではアビシャイコーエンのアルバムである。しかし、私はピアノを聴きたいという欲望で毎度このアルバムを選んでしまう。
とはいえ、その作曲の素晴らしさ、このアルバムの世界観を作り上げた張本人はアビシャイコーエン。その後のシャイマエストロのリーダーアルバムよりも、この作品における演奏が素晴らしい。時には主役を凌駕し、時には脇役に徹する。ありきたりな言葉だ。時に音楽は何をやるか、よりも誰とやるかが重要だったりする。ひとりでDTMばかりやっていると、ついつい忘れてしまうことだ。