第43話 「父の目線」
(松本市民タイムス リレーコラム 2019年3月25日掲載分)
2月。父親の命日に墓参りに行った。
父が65歳で亡くなってもう25年。まだその年齢には追いつかないけれど、段々と自分の歳が近づいていくのを感じながらふと思うことがある。
以前このコラムに、自分が独立して工房を持った頃は母親が唯一の理解者で、父親は「そんなのほっとけ。どうせ長続きしないんだから。」と言っていたようだという話を書いた。
長い間そのことについて「親父も案外冷たかったんだなぁ」と思ってたんだけど、最近どうもそれは違うのかもなと考えるようになった。
初めて工房を開いた頃。自分は23歳。親父はその頃56歳だったはず。今の自分とほぼ同じ年齢。
受験勉強の甲斐あって良い成績で高校に入ったのにもかかわらず、親元を離れた生活で不安定になり3年生ころから不登校を繰り返してずいぶん親に迷惑をかけた。
その後実家に戻って生活を立て直し、紹介された電気関連の企業に就職するもたった1年で楽器作りの仕事をやりたいと言い出して転職。頑張って仕事をしてたけどそこも4年ほどで退社してしまう。職安に通い始めたと思ったら2ヶ月も経たぬうちに「自分で工房をやりたい」と言い出す始末。
不登校の始まりから5~6年の間の出来事。親父はいつも僕をどんな目で見ていたのだろう。
父は、学校に行かなくなった自分を説得しようとし、何度も話し合ったのだけれど結局は諦めたのか選択を自分に任せてくれた。
最初の就職も親父の紹介だったし、楽器メーカーを辞めて工房を始めたいと言った時も、自分が大事にしてた盆栽や花のための温室を壊し、3坪半の土地を提供してくれた。工房を建てる時も、知り合いの大工さんに掛け合って基礎工事などを格安で手配し、技術的な相談にも乗ってくれた。
一方、基礎工事前の穴掘り、砂利入れは一切手を出さずに全て自分の責任でやらせた。工房がスタートして金に困っても安易に不足資金を出すなんてこともしなかった。
案外親父は、「ほっとけほっとけ」と母には言いながら、影でニヤニヤして自分を見守っていたのではないかと思う。技術屋である自分の息子が事もあろうに物づくりの仕事を始め、いろんな事にぶつかっては右往左往しながら進んでいくのを心配しながらも面白がりながら、ほらほら頑張れ、と遠くで後押ししていてくれたんではないかなと思う。
57歳の今の自分に、もしも出来の悪い23歳の息子がいたら僕はどんなアドバイスをするのだろうなと、ふと思う。