第66話 「人間と自然」
(松本市民タイムス リレーコラム 2021年3月6日掲載分)
八ヶ岳の緑の中をドライブ中に、突然視界に現れた真っ黒なソーラーパネル群に違和感を覚えたという話を以前このコラムで書きました。
僕自身は太陽光発電自体には全く反対というわけではありません。むしろ原子力発電に比べたらかなり安心できると思っています。ただその設置場所についてはよく考える必要があると思います。
緑豊かな八ヶ岳の山すそを人工的な黒い太陽光パネルが覆い尽くすのはやはり残念なことと思いコラム記事を書いたのです。
最近、その記事を書いたときには想像もしなかったほど身近に太陽光発電施設建設の問題が持ち上がりました。そこはなんと、蓼科に移住したばかりの我が家からほんの100m程にある畑で、代々農業を続けてきた土地の持ち主が高齢化し、ご子息に受け継ぐ時点で農業をやめて太陽光発電事業に投資しようという事になったようです。
自然を求めてこの地に移住してきた以上、自分の生活圏にそういった人工的な施設が出来るのはあまり嬉しくは思えない。正直な気持ちを言えば断固建設反対!なのですが、事態を俯瞰してみるとなかなか難しい問題も見えてきます。
農業経営者の高齢化と後継者不足の問題。子息が農地を相続して苦労するよりも、ソーラー発電のほうが楽に稼げる。そして地方の環境保全よりも国のエネルギー政策が先行し法規制も整わない、太陽光発電推奨という状況。何よりも我々人間たちが貪欲にエネルギーを求め続ける生活を続けていること。
考えていると「太陽光発電には賛成だけれど、自分の家の近くや自然の中ではやめて欲しい」という気持ちがなんだか自分本意な意見にも思えてきます。
原発は反対。温暖化も気になるし化石燃料を使い続けるのも不安。再生可能な自然エネルギーはいいことだと思う。でも自分の家の隣は嫌。どうしたらよいのでしょうか。
山や緑が好きで、その近くに住みたいから家を建てて移住する。考えてみればそれさえも自然の景観を壊すことに繋がるかもしれません。自然好きな人の、勝手な自己都合なのかもしれません。
家が多くなりあちこちの田や畑が農地転用されて住宅化していくことは自然や環境を壊すことにならないのだろうか。いや、そもそも農地は自然なのか。
「自然」という言葉をある辞書で調べると、『人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。』とあります。人間は自然に反するものという意味です。 考えさせられます。
自然志向という言葉を使う前に、自分の在り方を問わなくてはと思う最近です。