つれづれに、考える土曜日に雨が降った。
人生もいよいよ最終コーナーにはいったのだろうか。
それにしても、まだまだ、いろんなことが道半ばでは、あるのは間違いないところだ。
気がついたら、いろんなことをやり散らかしながら、散らかったものが、じょじょに、ひとかたまりの荒野をころがる刺草のようにもなり、いま、ここにあるような気もしてきた。
Covid-19時代のいまを生きているぼくは、いくつものリモート会議やら、リモート講演やら、リモート朗読会などを梯子しながら、雨降りの6月の土曜日にたたずんでいる。
タイムラインに流れる仲間たちの写真と文章をたどりながら、やはり、自分にしかできないことを、未来的な存在であるジェネレーションにどうやって伝えていくのか、そのことが、ぼくのもふもふの刺草のテーマなんだな、なんて思いはころころと転がっていく。
この歳になっても、まだまだ、新しいことに出会うことがなによりも嬉しい。しかも、過ぎ去った70年代、80年代に、ぼくが等閑に付してきたあれや、これやに、いま、出会えることがなによりも嬉しいことだ。
道元、ブリヤ=サヴァラン、袁枚、ウェルギリウスと繋ぎながら、そこにスコットランド生まれのデイヴィッド・バーンが乱入してきて、なんとも賑やかな現在が、これからの秋の立教大学での授業の構想を盛り上げてくれる、そんな土曜日。
よきかな。この世界、この時代。よきかな。このブルシットの世界と時代を生き抜くためにも、犬も、猫も、狼も、熊も、そして鹿も猪も、ついでにホモ・サピエンスのぼくたちも、風を感じて、星座の音楽を聴きながら眠る土曜日があることに思いを寄せて、生きていこう。