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事業主と会社員の違い


経営について

  1. 使用者のもとにバイトなど労働者としての会社員経験

  2. 自らを自らの使用者でありながら労働者として、請負として事業計画から受注までした経験があること


 経営者はこの二点の実績を積んでいることが最低条件で、それら経験の質量が少ないほど経営は自転車操業となる。

 自転車操業によって従業員である末端の人に負荷がかかり、負荷が大きすぎるから衝動買いや暴飲暴食に走り賃金を上げろという声が大きくなる。つまり自律といった秩序、社会保険や法令遵守の精神がないからそうなる。
そしてお金はエネルギーなので、使用される末端が低賃金でありながらも一人親方やフリーランスといった(個人事業主)というのは直ちに是正すべきである。
つまり請負なのか、労働者なのかハッキリすべきだ。

 それをいうと、元請けや上長など立場の高い人がルールを設けて強制するべきだという意見が挙がる。確かにそうだ。しかし上に全て委ねるということは自由を自ら放棄することであり、独立独歩である事業家精神と矛盾する。受注額が下がっても仕方ない。

 建設業は全身負荷が大であるため疲労により、働きすぎる者ほどとくに勘違いを起こしやすい環境にあるたいへん苦労する仕事なので、労働者を保護するために法律は緻密に組み立てられている。建設業の許可申請をすべて自分で為せばわかる通り、最低でも五年計画を持ちましょうと記載ある。

 請負の基本は先方の仕事を分けていただくこと、つまり受注することにあり、あまり先方や他業者に迷惑がかかり過ぎると発注先を変えようと長期計画方針が決定され、後々契約取り消しとなる。


 一人親方の相場が年収800万円を超えるのは、一人で初めから請負として現場作業~取引先とのやりとりといった事務処理、単価設計などいっさいを出来るからであり、企業規模が大きくなるにつれて負荷が大きいことから、身銭を切って仲間を増やし役割分担をするようになる。
 雇った労働者が辞めてまた一から育て直すのはエネルギーの損失が大きく、そうならないために社会保険や労働法といった法によって保護したり、高い外注費を支払う必要がでてくる。

 また外注費は労務費や業務に係わる経費や法定福利費などいっさいを内包している。


 これは建設業に限らず、映像事業であれバックバンドであれ派遣業であれ書士業であれ、なんにせよ請負や業務委託とはそういうものであるし、経営の基本である。


 以上のことから事業家にとって仕事を受注するという行為は、新卒者が希望する大手会社に雇用されるようなもので、仕事やお金は奪うものではなく、拝命し借用するといえる。


 私は最低賃金の社会保険にも加入できない立場でいっさい事業経費に還元しているから、私より稼いでらっしゃるエネルギーの大きい方は全てにおいて私より有能だろう。
 なぜなら最低賃金とは法で定められた、どこでも雇ってくれる責任能力を有しないアルバイト素人の金額であり、また内実はそれに劣る金額なのだから。


 どの立場であれ本来このような万人の標的となりえるようなことは誰もしたくない。できれば楽にふわっと抽象的に優しく遠回しに説明するだけで、相手が勝手に自ら考え、自ずと解き、自ずと明らかにしてくれたら楽だ。

 なので先方や国家や法律に指摘され強制されて自由を取り上げられてしまう前に自浄自律して、内実ある事業者として自証し、共感する者から信任を得なければならない。



甘えの構造

 さて哲学の光をあててみると、問題の本質は甘えや所属意識や法理解の欠如による秩序崩壊にある。これは良くいえば平和な時代の象徴であり、優しさに満ちた時代と言える。しかし優しさは甘さと厳しさを内包することにより成立するものであるから、法に基づき相手に応じて段階を踏んで説明しなければならない。


 日本人は戦国の世であれば、子を他家に預け立派な大人となれるよう、親である私たちから自ら切り離した。たとえ敵国であろうと子を立派に育てることは、名家や金持ちといったエネルギーが大きい者ほど成人すれば末端である平民への良し悪しといった影響力が高いことから、国家を超えて万民幸福の基礎である。統治が悪政であれば平民は飢餓に苦しみ国家を超えて負の連鎖を呼ぶ。それが解っているから敵味方である以前に真っ当な人間として育て上げる。

 文明開化後であれば、「可愛い子には旅をさせよ」という言葉があるように自然に教育を任せた。

 第二次世界大戦後しばらくまでは、よそ様にご迷惑をかけるなという恥の意識があった。これはドラマ  「渡る世間は鬼ばかり」やアニメ「サザエさん」からでも、ほかその時代を生きた人たちの書籍からもうかがえる。たとえば数学者 岡潔であったり、精神分析学者 土居健郎であったりを参考にされたい。


 土居健郎というと懐かしくおもうが、私は大学一年後期に他学科である心理学を履修した。当時の私は100名あまりの軽音楽部で副部長を拝命していたり、社会人バンドをしていたり、初アルバイトをしたりと忙しなかった。それで点数がわずかに足りないことから心理学担当の教授に、点数を補う替わりにいただいたのが土居健郎『甘えの構造』についてのレポートであった。感想文レベルの稚拙なレポートを提出したが、無事履修することができ高得点をいただいた。教授に甘えてみたら『甘えの構造』について書くことになり、高得点という人情を賜ったといったところだ。皮肉めいたユーモアを感じないわけではないが、これも愛のカタチだなあと嫌味なくこころ晴れ晴れと愉しいものだ。


ところで人間社会の恥には階層がある。

  1. 個人の恥

  2. 家系の恥

  3. 社会の恥

  4. 国家の恥

細分化してみよう。

  1. 個人の恥において

    1. 人としての恥

    2. 男・女の性としての恥

    3. 名のある者としての恥

  2. 家系の恥において 

    1. 姓のある者としての恥

    2. 家名としての恥

    3. 家(本家・分家)としての恥

  3. 社会の恥において

    1. 生業としての恥

    2. 地域社会人としての恥

    3. 業界人としての恥

 家系の恥を守るためなら個人の恥は捨ててでも守り切らねばならぬし、社会の恥を守るためなら家系の恥を捨ててでも守り切らねばならぬ。国家を守ることも同様に。小言を述べたり同情する余裕があるならエネルギーをくれといったところだろう。

 小である私一個人を捨てて大を守るために。




時間があればいずれまた、『甘えの構造』についてウェブサイトの方で投稿したくおもう所存である。恩師が見るかどうか、憶えているかどうかは知らないが。

2600字ほど

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