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エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読んで思うこと
エーリッヒ・フロム『愛するということ』
愛という抽象的な概念に迫った、古典的名著。英語版の2周目を読了したので、思うことを書き出してみます。
愛とは相手への責任である
本書に、次のような一説があります。
If I love the other person, I feel one with him or her, but with him as he is, not as I need him to be as an object for my use.
誰かを愛するとき、その人を自分にとって都合のいい所有物にしてはいけない。ありのままのその人を尊重しなければならないという意味だと受け取っています。
例えば、相手を束縛するような人は、その相手を愛していない訳です。束縛することで、自分の都合のいいように相手を支配しようとしているからですね。
そういう意味でフロムは、尊重の基礎には自由が存在すると言っています。だから、誰かを愛するならば、相手を尊重するとか思いやるといったResponsibility(責任)を持つ必要があるというのがフロムの主張です。
面白いことに、これって人生でもまったく同じだなと思うのです。尊重の下にある自由。その自由の対局にあるのが責任です。これは仕事で考えると分かりやすいと思います。
アルバイトという働き方は、自由(お金、時間、場所)は少ない代わりに、責任も少ない。
会社員になると、組織の一員として責任も少し大きくなるけれど、自由もアルバイトより大きくなることが多い。でも、最終的な責任は会社が負ってくれる。
それが、フリーランスで働くとしたら、仕事の責任はすべて自分に降りかかってくる訳です。同時に、より大きな自由(お金、時間、場所、誰と仕事をするか、誰を顧客にするか)を手にできる。
会社の経営者であれば、社員全員に対して責任を負う代わりに、最上級の自由(お金、時間、場所、意思決定、etc…)を得られる。
大統領や首相にまでなれば、一国の国民全員に対して責任を追う代わりに、その国や世界をも動かしうる自由を手にできる、という構図です。
ただ、責任を負うというのは大変です。だから、多くの人が責任の少ない方に流されてしまう。(それでいて会社や社会に文句を言っているので、全然わかってないな~と思ったりもしますが…)
誰かを愛するということも、それだけの重みがあるということではないでしょうか?改めて、その覚悟を持たなければ、誰かを愛することなんてできいと思います。
誰かを愛する勇気はあるか
こんな一文も、心に残りました。
While one is consciously afraid of not being loved, the real, though usually unconscious fear is that of loving.
人は顕在意識では愛されないことを恐れているが、実際には、いつも無意識で愛することを恐れている。直訳するとそんな意味になっています。
愛するということは、何の保証もなしに自分を差し出すということ。何の保証もないというのが重要です。
恋愛で例えると分かりやすいでしょうか。本当に好きな人がいた時、その人に告白するのはとても勇気のいることです。なぜなら、両思いであるという保証はないから。夜も寝られないくらいその人のことを考えてしまうからこそ、フラれでもしたら死んでしまいたくなるほど絶望するかもしれません。それでも、告白をするという選択をしなければ、付き合えたかもしれない未来は絶対に訪れない訳です。
愛するということも、これと同じリスクを取らなければできないことだ。そうフロムは言います。
この世界にまったく同じ人間は存在しません。一人一人が、オリジナルな個性を授かって生きています。見た目、話す言葉、慣れ親しんだ文化、思想や考え方もバラバラ。だからこそ、人は分かり合えないという前提に立って、それでも分かろうとする努力が必要だと思うのです。これは、恋人や夫婦関係にも当てはまるのではないでしょうか。
相手は自分の期待に応えてくれないかもしれない。それでも、自分のできることに踏み出さなければならないのです。分かり合えないからといって、その時点で人間関係を絶ってしまえばそれまでです。
愛するためには、他者との関係に踏み込んでいく勇気が必要。そう考えると、印象的な一節だと思ったりします。