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社交不安障がい者が旅をする。#29
バンコクで走っていたボロボロの赤いバスなんて、ここでは走っていなかった。
見かけるのは最新式のきれいなバスだけだ。
もちろんエアコン付きの。
さらに歩くとモスクが見えてくる。
この国に来てから、特に田舎のPadang Besarでは、多くの女性がヒジャブを着けていた。
この国がイスラム教を信仰する人が多いことがよく分かる。
仏教国のタイに対して、マレー半島を1000キロ南下すると、文化も宗教も何もかも違っていた。
タイでは町中に見られた「ワット」も、ここでは見ることはないのだろう。
陸で繋がっていてもこんなに違うんだなと、改めて実感してしまう。
お昼、中華系の飲食店に入った。
店先の席に座る。
近くで呼び込みをしているおじさんは僕を中国人と見たのか、中国語で案内なんかをしてくれた。
本土の普通话よりも少しクセのある中国語だが、十分理解できるものだった。
そんな彼が呼び込みの時に発している言葉の方は、全く理解できない。
ヒジャブの被った女性客には、明らかに中国語ではない言語で話している。
彼は中国語とマレー語、英語も話せるようだ。
通りの方を見ると、他にも中華系の店が軒を連ねているようだった。
「やっぱりこの国の文化は面白い」
頼んだ葱花饼の味は、僕にとってとても親しみのあるものだった。
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その後もしばらく街を彷徨いていた。
独立広場などを見に行くも、途中で天気が崩れてしまい電車に乗って宿の最寄りまで帰ることにした。
夜になると、雨は上がっていた。
この気を逃すまいと、クアラルンプールの夜景を見に出かけた。
暗くなっても、繁華街は人でごった返していた。
いや、むしろこの人たちにとってお楽しみはこれからなのかもしれない。
そんな中、楽しげな彼らとは反対に、路上に這いつくばる物乞いの姿が僕の中に深く突き刺さった。
こういった人たちは、これまでの旅の中でも何人も見かけた。
年老いたお爺さんお婆さんが多かったが、皆一様にコーヒーなどを入れるコップを差し出して恵んでもらえるのを待っている。
時々、通りかかった人が余った小銭や少額の紙幣を入れている姿も見かけた。
目の前に見えたのは、地面に寝そべっている子供だ。
手は変な方向に曲がっている。
そんな子供に寄りかかり、どうかお金を恵んでくれと言わんばかりの中年くらいの男の姿もある。
こうしているのは彼らだけではなかった。
繁華街を少し歩くと、同じように親子で恵んでくれと乞うている人たちがいた。
こう言った人たちを見かける度に、複雑な気持ちになる。
僕は見窄らしい格好で恵んでもらえるのを待っている彼らよりは、お金を持っている。
彼らを見て見ぬふりをするのは心が痛んだ。
だが同時に、お金を恵んでしまうのは彼らの為にはならないということも、なんとなく感じていた。
なぜなら、僕たちが生きる世界での「お金」というのは、誰かに「与える」からこそ返ってくるものだからだ。
通りかかる誰かから乞うているだけの彼らに恵んでしまうのでは、彼らを根本的に救うことにはならないのではないか。
彼らだって好きで物乞いなんてやっているのではないのだろう。
四六時中、人通りの多そうなところでああやっているのは、楽しくはないだろう。
運が悪かったにせよ、何か重大なことをやらかして無一文になったにせよ、それを自己責任と切り捨ててしまうのは非情だ。
彼らにそうせざるを得ない状況を作り出したのは、僕たちが生きる社会そのものだ。
貧困やホームレス、物乞いが社会の問題なのだとしたら、それはそのまま僕たち自身の問題のはずだ。
「自分1人が何かしたところで、彼らを救うことはできない」
「社会は変えられない」
だから、多くの人は見ないように、そそくさと素通りしていく。
いや、そもそも自分と、自分の身近な人にしか興味のない人もいるだろう。
何れにせよ昔も今も、僕たちの社会に蔓延する最大の病は「一人一人の無関心」だ。
そう分かっていても、結局僕自身も、いつも彼らの前を素通りするだけだった。
屋台でいかにも不健康そうなスイーツを買うくらいだったら、その金を彼らにくれてやる方が満たされる気すらした。
それでも自分が持っているものを失うこと怖さに、ほんの数セントも出せない自分がいた。
恵むことが正しいことなのかは分からない。
自分が会社の一つでも作って彼らを雇うことが、彼らの状況を根本的に解決するのかもしれない。
そもそも彼らは働きたいのだろうか。
もし本当に好きで物乞いをやっているのだとしたら、僕にそれを咎めることはできない。
でも、「働く」という人間にとって最大の幸福を知らぬまま人生を終えていくのは、もったいないと思ってしまう。
というか、昨日も全く同じ場所で寝たきりの子供と悲壮な面持ちの親を見た。
「もしかしてそういうビジネスなのかな」
色々考えて訳が分からなくなっているうちに、ライトアップされた双子ビルが見えてきた。
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Twin Towers の前に来ると、ベストショットを撮るべく多くの人がスマホを掲げていた。
その中には最高の一枚を撮るため、スマホやら何かの機器やらを持って客引きをしているカメラマンの姿もあった。
交差点を渡ろうと信号待ちをしていると、若い中国人男性が写真を撮ろうと気を伺っていた。
車のいないタイミングを見計らって車道に立つと、カメラマンがそれを絶妙な角度から激写した。
ちらっと見えた写真は、他の観光客の写り込みはなく、中心でカッコつけている彼はしっかりと格好がついていた。
「SNSにあげるんだろうな」
そんな一連の流れを見て、なんだか大変そうだなと思ってしまう。
周りには、彼と同じように写真を撮っている観光客が大勢いた。
もちろん、記念として撮りたいのは尤もだろう。
だけど、少しでも映えるように撮ろうと必死になっている彼らを見ると、SNSで見せびらかしたいんだろうなという欲望が見え隠れしてしまう。
そんな風に他人に自慢して承認欲を満たしたところで、その見せびらかし合いに終わりはないというのに。
そんなことを思いつつも、自分もできるだけいい場所から撮りたいという欲望に勝つのは至難の業だった。
結局、疲労困憊で動かない足を引きずって夜景スポットを歩き回った。
「何やってんだろ」
僕も、周りに大勢いる観光客も、何ら変わりはない。
同じ人間として欲望の赴くままに写真を撮り、屋台のメシを貪っていた。
眼前にある「世界の影」から目を逸らして。
撮れた写真には満足しつつ、煮え切らないモヤモヤが心の中で渦巻いていた。
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