三年前、大崎さんは一種の睡眠障害に悩まされていました。
入眠するところまではいいのですが、途中で覚醒してしまいぼんやりとまどろんでいると足からだんだん身体が動かなくなり金縛りになるのがお決まりのパターンでした。
そして金縛りにあっている最中、彼の寝ているベッドの傍らには男が立っていたのだといいます。
ぼんやりとした真っ黒なシルエットで姿だけでは男性とは判断できないのですが、毎回そのシルエットは大崎さんの耳元に息がかかるほどの距離まで顔を近づけて決まってこう言ってきました。
「俺はお前の夢の中から生まれてきた」
耳に直接聞こえるというより、骨伝導のように音が伝わってくるような感覚だったそうです。
聞きようによってはメルヘンチックですが、声はまるで地の底から響くような低い声でおおよそそんな世界観からは程遠かった。
そしてその声を聞くと、必ず気を失ったのだといいます。

寝てもまったく疲れが取れない大崎さんは仕事でも小さな失敗を繰り返してしまいました。
大きな失敗こそなかったものの、いつか起こしてしまうのではないかと思うと心配になり、最初は問題なかった入眠まで難しくなっていきました。
大崎さんは友人の勧めでとある精神科医のもとで治療を行うことにしました。
しかし、一向に効果は表れませんでした。
睡眠薬によって眠りにつくことはできました。
できましたが、黒い男は相変わらず寝ている大崎さんの傍らに立ち、「俺はお前の夢の中から生まれてきた」という言葉を繰り返し大崎さんの眠りを妨げるのでした。

ある日、主治医である精神科医に催眠療法を勧められました。
黒い男の発した言葉から何らかのトラウマが大崎さんにあるのだと思ったのでしょう。
正直大崎さんは催眠療法が自分を助けるとは思ってはいませんでした。しかし、男の言う「夢の中」というワードが気になり、少しでもマシになる可能性があるならと医師からの勧めに首を縦に振ったのでした。

最初こそ催眠療法には少しの不安はありましたが、専門の医師の治療を重ねるにつれてぼんやりとですが過去の記憶が蘇ってくるようになりました。
あの黒い男と思しき人物、過去に何度も夢の中に現れていたことを思い出していったのです。
それと同じくして、催眠療法によって夢にその黒い男が現れている「タイミング」も少しずつ掴めてきたのです。
直近では前の職場でのパワハラで精神を壊す直前に、それより前は大学卒業を控えて焦燥感に駆られた時、幼少期にまで遡れば両親が離婚したときになど大小問わずストレスが掛かり、精神的に大きな負担がかかるタイミングで何度も現れていたのです。
ただどういうわけか一番治療の根本になるはずのそれより先のこと、つまり「その男が現れるトラウマのきっかけや出来事」に関しては何度か催眠治療を受けても思い出すには至りませんでした。

とはいえ、治療の効果があったのか黒い男が大崎さんの枕元に立つことは無くなりました。
原因が分からないことに一抹の不安はありましたが、とりあえず日常の生活が戻ってきたことを大崎さんは喜んだのだそうです。
もともと寝つきが悪いほうではなく、眠れるようになると以前の調子を取り戻していきました。
このまま黒い男のことはいったん忘れよう、大崎さんはそんな風にも思い始めていました。
しかし、結局そんな時間も長くは続きませんでした。
ある日の仕事休憩中に主治医から連絡がありました。
「催眠療法を中止して欲しい。」
端的に言えばそういう内容だったそうです。
理由は担当医の体調不良。
突然のことに大崎さんはとても驚きました。
実際の話、ここでいきなり治療を止めてしまって大丈夫なのか、大崎さんはたいへんに不安を覚えました。
その一方で主治医の言葉の歯切れの悪さからなんとなく大崎さんは察してもいました。
黒い男は大崎さんの側から離れたのではなく、担当医の側へと一時的に移っていただけだったのだと。
予想は当たり、治療を止めるとすぐに黒い男は大崎さんのもとに戻ってきてしまいました。

「無駄なことはやめろ。俺はお前の夢の中から生まれたんだからな」
治療が正式に中止になったその夜、あの黒い男はまた再び枕元に立ちました。
その日は腹立たしくも、さも勝ち誇ったように口元を歪めているように見えたそうです。
「お前は誰なんだ?俺の夢の中って一体どういうことだ?」
その日は治療を妨害されたイライラで金縛りにかかりながら黒い男に言葉を発していました。
その黒い姿のせいで表情は窺い知れないものの、どういうわけか先程と違い黒い男の表情がまた歪んだように見えました。
その表情はなんとなく「悔しい」というか「悲しい」というか釈然としないそんな感じに思えました。
「俺はお前から生まれた。だから必ず帰って来る。だから……」
また同じ言葉を見下ろした黒い男が呟きますが、今回は少し様子が違いました。
その言葉を聞くと同時に大崎さんはゆっくりと眠りの世界へと意識が没していきました。

大崎さんは夢を見ました。
目の前には大きな公園のベンチ。
幼い頃の大崎さんと亡き祖父が座っていました。
その情景は大崎さん自身には覚えのないものでしたが、どんな日のことなのかはわかりました。
両親の喧嘩が激しかったある日、大崎さんは堪りかねた祖父に手を引かれて遠くの公園に来ていました。
ただ年老いた祖父に孫の相手はできません。
幼い大崎さんは祖父に何かを言われるとパッと嬉しそうに走り出しました。
「見えないところには行かないように」とでも言われたのでしょう。
おぼつかなく走る大崎さんは、しかし、独りで遊んではいるわけではありませんでした。
隣に少年が一人おりました。
背格好はほぼ大崎さんと同じ程度の「黒い少年」がいたのです。

大崎さんは目を覚ましました。
寝汗に濡れた身体の傍らにまだ黒い男がいました。
そのとき、男がいかにも嬉しそうに笑うのがはっきりと分かったそうです。

「俺はお前の夢の中」

いつものようにつぶやくと、スッと姿を消しました。

体の震えの止まらない大崎さんは慌ててスマホを手に取ると主治医へ電話をかけていました。

「わかりました……。あの黒い男の正体……!」

幼い頃、大崎さんの両親は不仲でした。
その様子を間近で見てきた大崎さん自身も内気な性格になってしまい、幼稚園では友達がほとんどいなかったといいます。
だからいつも気がつくと目の前には黒い少年がいました。
少年は幼い大崎さんにとって友達、いわゆるイマジナリーフレンドといわれるものでした。
ですがある日独りでその少年と遊ぶ様子を見た両親から「気持ち悪いからやめなさい」と叱責されました。
少年は「じゃあ夢の中に帰るよ。今度から夢の中で遊ぼうね」と言ってその日を境に大崎さんは夢の中で遊ぶようになります。
ある時は近所の川で魚を取ったり、ある時は自宅で一緒にお気に入りのスポーツカーのおもちゃで遊んだり、またある時は先程夢で見たように過去の記憶の反芻の中にも現れて一緒に遊ぶこともありました。

あの黒い少年は。

いつも大崎さんに寄り添っていてくれたはずの存在だったはずなのに、いつの間にか忘れ去っていたのです。
ひとしきり主治医にそのことを告げ電話を切ると、大崎さんは無意識に大粒の涙を流していました。

「馬鹿、やっと気づいたのかよ」

背後から声がかけられ振り返るとまたあの黒い男がいました。

「お前が死んだら俺も死ぬんだよ」

そう言うと黒い男は徐々に薄くなり消えていったそうです。

あれからも黒い男は変わらずしばしば現れるとのことでしたが、大崎さんに恐れる心はなく、そのせいか金縛りに合うこともなくなりました。
ですから、大崎さんの視点ではこの話は無事に終わったと言えます。
その後、大崎さんは日常生活を問題なく送っています。

しかし、この話には一つだけ大崎さんの知らないことがありました。
催眠療法中断の理由、それは体調不良ではありません。
教えてくれたのは大崎さんの主治医でした。

催眠療法の担当医は彼の友人でもあったそうです。
大崎さんの治療を進める中で友人とは細かく連絡を取り合っていました。
もちろんそれは治療のためでしたが、ある日の夜、突然連絡が取れなくなりました。
最初は友人も疲れているから寝たのだろうくらいに思っていましたが、翌朝になっても仕事場に来ませんでした。
彼は心配になり、友人の家を訊ねると警視庁のパトカーが家の前に止まっており、人だかりもできていました。
慌てて事情を聞こうと周りに話しかけると、その場にいた近所の人が自分が通報したのだと話してくれました。
「玄関の戸が開けっ放しになっていて、中から声が聞こえた。だけど、声の様子がどうももおかしかったので中を覗いたんだ」と言いました。
近所の人が声をかけながら中を覗くとリビングに人影がありました。
それは友人だったのですが、一目見てただ事ではないと分かったと言います。
部屋の中心に模造紙がうずたかく積まれていました。
その一枚一枚に成人男性ほどの大きさで黒い男が書かれた模造紙が。
手には一本の黒いクレヨン。
友人の服もリビングの床さえも黒く黒くなっていました。

今でもその方はご存命なんだそうです。
ただ、もう正気でいるとは言い難い状況で、「俺はお前の夢の中。お前は俺の夢の中。俺はお前の夢の中。お前は俺の夢の中……」そう病室のベッドの上で繰り返し言葉を発し続けているのだそうです。

主治医の先生はこのことを大崎さんには話せなかったと言います、。
理由は分かりません。分かりませんが、大崎さんに話せば自分も同じような目に合うんじゃないかと、それが怖くて言い出せなかったのだと震える声で話していました。
少なくとも大崎さんに害がないのであれば自分はもう関わりたくないと、はっきりと言っていました。

彼は今でも、大崎さんに催眠療法を勧めたことを悔いているそうです。

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