これはかれこれ10年前の話だ。

「家に間男(まおとこ)がいるの。たいへん!」
妻からのメールを受け取った私は、二度三度とメールを見直しながら、なおも困惑していた。
たしかに家に間男がいれば大変だ。だがそれを妻からのメールで知るというこの状況はなんだろう?
そもそも私も妻も、もうすぐ定年を迎える年齢だ。
「さすがにそれはないか?」
一応妻に電話をしてみたが通話中で繋がらない。
どうせ子どもたちの誰かにでも電話をかけているのだろう。長話に付き合わされているなら、きっと末の子だろう。
仕方ないのでまっすぐ家に帰ることにした。
今日は金曜日。帰宅途中に軽く一杯吞むのがいつもの私の楽しみなのだが。


家に帰ると妻は開口一番「目が!目が見えるのよ!」と騒いだ。
妻の話はこうだった。
洗面所で化粧を落としていた時に後ろからガチャリと音がした。
何だろうと思いつつ、そのまま鏡で後ろを確認すると、斜め後ろの部屋のドアがスッと開いた。
その部屋は普段は物置にしている部屋で、勝手にドアが開くことなど有り得ない。
妻が「あれ?」と思いながら様子を見ていると、真っ暗い部屋の中、高さはドアノブのあたりから、目が一つ現れて、妻をじーっと見つめた。
びっくりした妻は慌てて私にメールを送った。
そしてやはり想像通り、そのまま末の息子と電話で話していたらしい(ちなみに末の息子は友達と卒業旅行中。つくづく良い子に育ってくれたものだと思いはするが、それはどうなんだ妻と思わないでもない)。
つまり妻は先ほどのメールで、間男(まおとこ)ではなく間男(あいだおとこ)、言ってみれば隙間男のようなものを言いたかったらしい。

そこで私は一つの疑問が湧いた。「なあ、目が一つ、見えただけだったんだろう?それなのになんで男だと分かったんだ?」
私の言葉に妻はハッとしたようになったが、自分でよく分からないといった様子で悩み、そしてポツリと言った。
「あなたの目にそっくりだったからじゃないかしら?」
つまり私の目によく似ている一つ目が妻を見ていたから、妻はその目を男性のものだと思ったのだという。
「なるほど」と言いつつも、私は釈然としていなかった。
しかも妻が言うには、この目のような気配を感じ始めたのは今日が最初ではないということだった。
「一週間くらい前からなんとなく誰かに見られているなぁ、という気はしてたんだけど、ハッキリとなんだったのかまでは分からなかったのよ」
一週間前という言葉を聞いて、私には少し思い至るものがあった。
「そういえば、引っ越そうかという話をしていたのも一週間くらい前じゃなかったか?」
私たちには息子ばかりが三人。
末の子が、今年就職を決めて家を出ることになっていた。
家は私が両親から受け継いだもので、子どもたちがいた時でさえ部屋が余るような状況だったのに、全員独立したとなってはさらに余る。
家は郊外の田舎にあり、生まれ育った家ということで愛着はあったが、なにぶん古くなっていた。年を取ってからも生活するには不便だ。
いっそ家を売り払うなりして、もう少し街に近い、利便性のよい場所に引っ越さないかと話し合っていたところだったのだ。
「つまり、この目は私たちに引っ越して欲しくなくて現れたということなのかしら?」という妻の言葉にもう一つ、思い至ることがあった。
「そういえば、ドアノブのあたりに目が見えると言っていたよな?」と私が聞くと「ええ、ちょうどドアノブの高さくらいに目が合ったと思うわ」と妻は言った。
「......そうか、ならそれは私の弟かもしれないね」

私には大きく年の離れた弟がいた。
父は弟が生まれてすぐに亡くなった。私がなかば父の代わりになって育てていたのだが、弟は小学校に入ってすぐに交通事故に遭って世を去ってしまった。
母もまた、夫に先立たれ、可愛がっていた我が子を無くしたショックで体調を崩し、ほどなく後を追うように息を引き取った。
妻とは中学の同級生なのだが、再会したのは母が亡くなった後のことだった。
私の家族と会ったことは一度もない。
つまり、弟と私が「目が似ている」とよく言われていたことなど、知りはしない。
いま改めて妻までもが言うということはやはり似ているのかもしれない。

「あなたのことが恋しいのかしら?」
妻の言葉におそらくそれは違うだろう、と私は言った。
「たぶん、たぶんだけれど、弟が引っ越して欲しくないのは君なんじゃないかと思うんだ」
妻は私の母とよく似ていた。容姿がという意味では似てはいないのだが、立ち振る舞いというか、雰囲気がとてもよく似ていたのだ。
妻は私の言葉に眉をひそめ「私たちが居なくなったらこの子はどうなっちゃうのかしら?」と言った。自分を慕ってという言葉にいささか情も湧いたのだろう。
「一旦、話はなかったことにして、もう少し住んでみるか?」
私は妻に語りかけた。
「お互い定年を迎えるからと言って、急に環境を変えることもないだろう。ひょっとしたら子どもたちの誰かが帰ってくるかもしれないし」
弟を想ってくれる妻の言葉は正直嬉しかった。
「......そうねぇ、この子を置いてどこにかに引っ越すというのもあまり気が進まないし」
結局、慣れ親しんだ土地だということもあるし、数は少なくとも同じように長らく地元に住み続けている友人もいる。もし子どもたちが帰ってくるなら部屋は多い方がいいという話にもなり、引っ越しの話は立ち消えた。それとともに妻を見る“一つ目”の気配もなくなったらしかった。

そして現在。私たちは今度こそ本当に引っ越すことになった。
息子の一人が結婚を気に近くに居を構えることになり、「一緒に住まないか?」と誘ってくれたのだった。
住もうとしている地域ももう少しは街に近い。
どうせ私たちの財布を当てにしてのことだろうが、それでも息子夫婦や孫と一緒に住めるという言葉には心惹かれた。
息子の相手は、これは親に似たのか、幼なじみの同級生で、私たちも小さい頃から可愛がっていた娘さんだった。
同居する相手としてはこれ以上なく、ともに住むなら家も二世帯住宅にする。
きっと上手くいってくれるだろう。
そう思い、私は息子の申し出を快諾することにした。

妻はあの日以来、弟の月命日には菓子を焼くなどして気にかけてくれていた(これはおそらく定年を迎えて妻も手持無沙汰だったのがあるだろうが)。
息子との同居を決めて以来、さてこれはもう一度弟が出てくるかなと思ったが、妻が言うには気配も全く感じないらしかった。
「もう成仏してしまったのかしら?」
少々残念そうに妻が言った。
「もし成仏したのなら良かったじゃないか」
私はそう言って、妻を慰めた。

慰めたが、私は弟は今でもどこかにいるだろうと思っている。
妻には黙っていたが、物置部屋はもともと弟が使っていた部屋だった。
その部屋の奥にしまっていたはずのおもちゃ箱が開いていて、お気に入りのおもちゃも数点見つからなくなっていた。
きっと弟は付いてくるつもりなのだ。
引っ越し先で、ひょっこりと、それらのおもちゃが見つかる日が来るだろうことを考えて、私は一人いまから苦笑している。

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