残念な幽霊~前日譚~(※怪談から脱線しています)
夜遅く、私は高校のプールにいた。
進捗確認をするためだと言って、私は呼び出されたのだ。
「これで良くなるんですよね?」
私の問いかけに少女は頷いた。
「それは貴方が一番よくわかっているのでは?」
少女の言葉に今度は私が頷いた。
「たしかに、たったあれだけのことでこんなに効果があるとは思いませんでした」
それは正直な感想だった。
私は昨年の春、この高校に教師として赴任してきた。
大学時代、水泳の選手だったこともあり、男子水泳部の顧問を引き受けることには異論がなかったが、初めてプールを見て私は愕然とした。
一言で言えば「呪い」。それもかなり根深い瘴気だった。
幼いころから私には霊感のようなものがあった。
いわゆる霊が見えるというものではないのだが、感覚として何か良くないものを感じることができた。その感覚が警報を通り越して悲鳴を上げていた。
放っておけば遠くないうちに犠牲者が出る、と。
そう確信した私は昔の伝手(つて)を使って助けを求めた。
それは狐面をつけた、見た目は・・・少女だった。
本人曰く、幽霊。
実際のところは私にも分からない。気配があまりにも濃い。幽霊というにはあまりにも人間味がありすぎるのだ。
もっとも、紹介してくれた人がいつ会っても少女のままなのだと言っていたから、信じるしかないのだろうが。
初めてプールに訪れたとき、彼女は眉間に皺を寄せて「厄介ですね」と言った。
そのとき少女は私にある怪談を書くように、そしてネットのあるサイトに投稿するようにと言ってきた。細かい理由を私に説明する気はないようだった。
「最初はなんでそんなことをさせるのかと思いましたよ」
私の言葉に少女は表情を変えずこう言った。
「この呪いは閉じてしまっていることで濃くなってしまったようでしたから、広げてしまえばその分薄くなると思ったんです。当時部員だった人たち、歴代の顧問、特に居合わせていた顧問の女性の恐怖の念なんかがちょっとずつ溜まっていったんだと思います。歴代の水泳部の部員の子たちだってうすうす何か感じるものがあったんじゃないでしょうか」
「しかし、じゃあなんで最初の時はこの高校だと分かるような書かせ方をしたんです?逆効果な気がしますけど」私の問いに少女は言葉をつづけた。
「その顧問の先生に見つけてもらうためです。私が直接行くこともできましたけど、それではきっと話してはくれない。彼女の方から見つけ、そして貴方のこと知って、彼女の意思で吐き出してもらう。貴方が感じた通り、あの方が一番呪いの影響を受けていました。貴方に話したことで、閉じる鎖の一つを外すきっかけになりました」
少女はさらに言葉をつづけた。
「最初は偶然の事故だったんだと思います。先祖返り、とでもいえばいいのでしょうか。エースになれなかった子の遠い先祖がおそらく呪術のようなものを生業にしていたのでしょう。それでも本人に呪うつもりはなかったので抑えられていた。しかし、彼女の怪我をきっかけに力だけが標的を見つけて彼女から離れてしまった」
少女が手の平を合わせてそして離す。
「そして、呪った後も力が強すぎて残ってしまい、エースの子の霊もまたこのプールに残ってしまいました。美術部の子がずっと助けようとしていましたが、もともと霊的能力がない普通の子だったため、どうにもならず叫び続けることしかできなかったようです」
だから「違う、違う、違う」だったのだろう。
少女はさらに、当初の呪いが薄まり切る前に、エースの子の幽霊のほうが徐々に悪い霊になり始めてしまっていると言った。もしエースの子が悪霊になったら今度こそ力業でしか対処する方法がなかったというから、間一髪のことだったらしい。
もっとも「私としては怪談になってくれたほうが良かったんですけどね」と恐ろしい一言も言われたのだが。
本当にあった怪談を広めて、呪いの濃度を薄くし、その間にさらに私はちょっと情けなくなるような創作怪談を生徒たちに広めていった。
怪談を広めるタイミングに合わせて、狐面の少女のほうで何か仕込みを行ったようで、思った以上にすんなりと生徒たちの間にこの怪談は広まっていった。
男子生徒の大部分には大変迷惑な怪談だったろうが、ま、考えていること自体は当たらずとも遠からずというところだ。
「長い時間で作られた呪いは短期間ではぬぐえません。もともとがある少女の情念から生まれたものですから、別の情念をぶつけることで徐々に相殺することはできます」
狐面の少女はそういうと、プールの水面に触れて波紋を起こした。
「幸い、年ごろの男子生徒が多数います。その年ごろなら大なり小なり持っている欲求らしいですから、誰かだけに負担をかけることなく、別の情念を生むことができるんです」
「もともと女子生徒の思いですから、それはぶつけられるものとしてはさぞかし嫌でしょうね……」
私は苦笑した。それはきっととても気持ち悪く感じることだろう。おそらく今も二つの念はぶつかり合っている。そんな気配がしたが、ぶつかり合っているおかげでこちらに割く余裕がないらしいことも分かった。
「その分、思ったより早くエースの子の魂を解放することはできました。美術部の子の魂も一緒に逝きましたから事態がこれ以上悪くなることだけはないと思います」
少女は腕をプールに沈めて何かを確かめている。
怪談を広めて約一年、それでも少女に言わせれば想像よりもずっと早かったらしい。
「ネットの世界というのも便利なものですね」
と少女は言ったが、これはなんのことだかは私には分からなかった。
「あとは男子生徒の情念がもとある呪いを押し切ってしまえばそのうちにプールを使っても事故は起こらなくなると思います」
男子生徒が飛び込みに成功するといいことがある、それはある意味で噓ではない。飛び込みの成功はすなわち呪いの弱体化を意味する。
「完全に安全になるには飛び込みが成功してからおそらく三年くらいかかると思います」
そんなにか、と内心思ったが、少女の言葉はおそらく合っている。薄くなったとはいえ、まだ嫌な気は残っている。
少女がプールサイドに腰を掛けてくるぶしを水に沈める。
「ここまでくれば無理やり引きはがす方法がないわけでもないですよ」少女が言う。
「剥がされた呪いはきっと本人に帰っていきますから、何が起きても責任は持てませんけど」
一応、少女なりに一番安全な方法を選んでくれていたらしい。
少女はゆっくりと狐面を外して脇に置いた。
おもむろに着ていたパーカーを脱いで足から体を水に沈め、プールに入っていった。
「ところで、なんで泳ごうとしているんですか?」
私の問いに少女はこともなげに。
「え?プールがあったら泳ぎたいじゃないですか。まだ暑いですし」という。
「広いし、泳いだら気持ちよさそうだなって思ったんですけど、いきなり私が入ったら絶対暴走すると思ったので、落ち着くのを待っていたんです」
だから今日スク水着てたんですか?私がそう聞いた時、少女はもう気持ちよさそうに泳ぎ始めていた。
何か必要があって着ているのかと思って何も言わなかったのだが、少女は最初から遊ぶつもりで着ていたらしい。
それにしてもなんでプールの水を張り替える日、知ってたんです?
そして私ひょっとして見張りのためだけに呼ばれました?
「ちゃんと見張っててくださいねーっ」
そう思い至ると同時に少女の声が聞こえる。大正解。
「こういうときだけ無邪気になるのかよ」
私は独り呟いた。幽霊でも夏は暑いものらしい。