見出し画像

【渋谷の歴史 vol.9 「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツの住宅と家具~憧れの家具との再会」】

前回記事です


昔からお気に入りだった東山の「家具屋」と宮下パーク

90年代前半、目黒の蛇崩に向かう野沢通り沿いの坂の中腹に、石積みの柱が印象的なファサードの凄くかっこいい家具店があった。当時私はまだ若く、そのお店は敷居が高くて別世界に感じていたが、勇気を出して一度店内に入って一目惚れし、「将来、必ずここの家具を買おう」と思っていた。


PACIFIC FURNITURE SERVICE

その家具屋さんはパシフィックファニチャーサービス(以下PFS)と言い、現在は恵比寿のアメリカ橋の手前にある。それから歳を取り多少余裕ができてから、ちょくちょく通うようになった。こちらの家具はいわゆるミッドセンチュリーなデザインとは一線を画すクラシカルなテイストで、木材を基調にした落ち着いたデザイン。そしてどこか既視感のある「どこにでもあるようでどこにも無い」素晴らしいデザインなのだ。

DESERGO 工房内の写真。施工例を見ると有名店の事例も多い。

2016年頃に「宮下パーク」から出店の依頼が来て、内装を考えた時にたまたまスタッフの友人がPFSで修行を終えて独立したタイミングだった。もちろん迷わず内装をお願いした。当然「あのクラシカルなテイスト」を継承し非常に良く仕上げて頂いた。館側からの評判もかなり良かった。壁の色は代表の入江くんからの提案でJBLのスピーカーの色「JBLブルー」を使った。レコードの什器もナラ材でニス仕上げにしクラシカルなテイストに仕上げて頂いた。それ以来、全ての新店舗の内装は彼の会社Desergoにお願いしている。

フェイスレコード宮下パーク店内

灯台下暗し

その後、新店舗の内装の打ち合わせをしていた時に、入江くんに「PFSもdependent housingの家具を復刻していてるんですよ」と言われびっくりした。よく見たらPFSのBLOGに「P.F.S.では1988年の発足以来このシリーズを作り続けており、DEPENDENT HOUSEシリーズはまさに原点とも言える家具たちです。」と記述されていた。ワシントン・ハイツに建てられたデペンデントハウスで使用されていた家具から影響を受け、当時設計されていた家具からインスパイアされた家具を復刻し製造販売されていたのだ。

まさに灯台下暗し。30年前から好きだった家具屋さんはデペンデントハウジングの家具を復刻販売していて、私の一目惚れした家具たちはワシントンハイツで使われていたデザインの家具だったのだ。

さらに戦後すぐのdependent housing第1世代のDH家具から歴代の払下げのDH家具を販売と修理もされていた。
http://pfservice.co.jp/news/9914/

dependent housing第1世代の家具は全て国内にある材料で国内の業者に生産が委託された。現在でも存在するメーカー、天童木工などがGHQから委託されて作ったそうだ。実際に使用されていた家具はDH家具と言われ当時作られたものが現在も稀に流通しており、ビンテージ家具の愛好家の中では人気があるそうだ。

さらに調べてみるとこんな広告も見つけた。

デペンデントハウジングの復刻家具の広告 (1992-05 近代建築 広告)

その後、WHとDHの事を調べている過程で、X-knowledge 2003年3月号を見ると「米軍ハウスの遺伝子を継ぐ日本で唯一の家具メーカー」とPFSの特集があった。以下、石川社長のコメントを抜粋してみた。

「米軍ハウスと聞くと、アメリカ然としたイメージが先行してしまいますが、実際にはロサンゼルスに行ってもニューヨークに行っても、アリゾナに行ってもあんな風景はどこにも探せない。米軍ハウスが作られた最初期は、占領軍が日本の職人に日本の木材で住宅を作らせていたし、梁を思わせる日本らしい意匠が取り入れたところがあったことを考えても、彼らが極東の地、日本で住むにあたって好んだのは、当時アメリカで流行していたモダンな要素そのものではなく、むしろオリエンタルなものとアメリカ的なものが融合した、全く新しいものだったんです。僕自身は、米軍基地のフェンスの向こうで繰り広げられていた、少し危険な香りが漂うハウスの雰囲気がたまならく好きでした。日本にあって日本ではない、かといって実はアメリカというわけでもない。ダークサイドな部分も持っている“あい⚫️⚫️”のような一面に魅力を感じるんです」


X-Knowledge HOME Vol.13 ルイス・バラガンの色と光の空間 2003年march

「憧れのアメリカン・ハウス」の設計者はシアーズの元デザイナーだった

ではこれほど優れたコンセプトやデザインをまとめたのは誰なのか?調べてみると、これらの仕様を決めたのは日本人なのかアメリカ人なのか非常に興味が湧いた。それで調べてみると1人の米軍の少佐により全体を取り仕切られたようだ。


デペンデントハウスに掲載されている推奨されたインテリア。「昭和時代の憧れのリビングルーム」が約80年前の昭和22年頃にはすでに確立されていた。現代でも「憧れのリビングルーム」の基本的なスタイルは変わっていないのではないだろうか?(dependents housing p29)

こんな終戦後すぐの1947年、今から70年も前に現代とほぼ変わらないインテリアを推奨し、「引き違い窓と瓦屋根のアメリカ風外観」の日本独特の米軍住宅、のちに「アメリカン・ハウス」と呼ばれる家がGHQと日本の商工省のスタッフによって生まれ日本で調達した資材によって日本中に作られた。家の中で使われる家具や什器の設計と監修も行い国内で生産する指示も行った。
その責任者の名前は、D.ヒーレン・S・クルーゼ少佐といい前職はシアーズ・ローバックの工業デザイナーだった事がわかった。最近でもほとんど注目されていない工業デザイナーかもしれないが、日本の戦後のカルチャーをデザインした人の一人ではないかと言えると思う。

知れば知るほどに現在の渋谷のカルチャーの点と点が繋がってくる。勉強すればするほど知らないことが増えてくるものだ。


*現在では差別的とされる言葉は伏せ字とさせていただきました。

いいなと思ったら応援しよう!