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渋谷(系)の歴史「HOSONO HOUSEは扶養家族住宅だった」


*細野晴臣のHOSONO HOUSEが渋谷系の音楽かどうかは人によって捉え方が違うと思いますが、今回はHOSONO HOUSEの住居自体について書いておりますので、こんなタイトルになりました。ご了承ください。

HOSONO HOUSE  Bellwood Records – OFL-10 オリジナル盤。個人所有

HOSONO HOUSEは2023年で発売から50周年を迎えた。

アルバム収録曲の「恋は桃色」をアメリカの話題のサックス奏者のSam Gendelによる英詞でのカバーが発表されて話題になっている。五木田智央氏がジャケットを手掛けたカバーアルバムも2024年11月に発売されるそうだ。非常に楽しみである。

ちなみに私の経営するニューヨークのFace Records NYCではここ数年、細野晴臣の人気が凄い。日本でもそうだが、入荷するとすぐに売れてしまう。特にHOSONO HOUSEの人気は凄い。良い音楽は時代を超え場所を超え世界共通だ。

「HOSONO HOUSE」裏面のクレジットには、狭山市の当時の自宅でもあった住所がそのまま掲載されている。今では考えられない事である。(wikipediaにも掲載されている)

HOSONO HOUSEは扶養家族住宅?

このアルバムを聴いている時ふと気づいた。「この狭山アメリカ村にあったHOSONO HOUSEって代々木公園の257号室と同じつくりなのかな?」と急に気になってきた。
257号室とは今まで何回も書いてきたワシントン・ハイツのデペンデントハウスのことで、代々木公園に唯一残っている「オリンピック記念宿舎」もともとは米軍士官の家族向け住宅、Dependent Houseつまり扶養家族がいる人向けの広い間取りの住宅のことである。

HOSONO HOUSEはもうなかった

HOSONO HOUSEが存在したハイドパーク住居區(狭山アメリカ村)一帯の現在の様子 2024年7月

気になって記載された住所を頼りに現地に行ってみた。しかし当然、HOSONO HOUSEは存在していなかった。痕跡さえもなかった。斎場の駐車場になっているのがなんとも淋しかった。

しかし現在でもこちらの狭山市鵜の木から少し離れた場所に「米軍ハウス」と呼ばれる米軍住宅は点在しており、さらに「ジョンソン・タウン」や16号線を南下した場所に「福生アメリカンハウス」がある。現地に行ったついでに見学してきた。

特にジョンソン・タウンはきれいに整備され、塀の無い庭付きの1軒家はなんとも魅力的である。10月上旬の時点で何軒か空室があり70㎡ほどの広さの部屋で庭と駐車スペース付きで180,000円前後で貸し出されていた。同じ敷地内にカフェや雑貨店、古書店などもあり非常に良い雰囲気である。

しかし実際にジョンソン・タウンにある住宅や福生のアメリカンハウスの住宅は、厳密に言うとdependent housingに掲載されている住宅や257号室とは微妙にディテールが異なっていた。

そこで、デペンデントハウスの研究もされているキャンプ・チッカマウガ研究家(大分県別府市にあった米軍駐屯地)の高野壽穂氏にご協力を得て間取りからデペンデントハウスの種類をご教示頂いた。

① 戦後すぐにGHQの指示のもとに国内の建設業者によって建設されたデペンデントハウス(扶養家族住宅)。GHQと商工省工芸指導所がDependent Housingという設計書を作成し、それを元に全国に住宅や什器が作られた。しかし日本に返還後にほとんどの住宅が壊され、国内で代々木公園の257号室が唯一残っているオリジナルのデペンデントハウスだそうだ。第1世代。
② 朝鮮戦争の際に住宅が不足して国内の建設業者が米軍から委託されて作られたタイプ。第一世代とは若干設計が違うが、基本的には同様に米軍兵士が家族と一緒に快適に暮らせる仕様になっていた。福生や入間に残る住宅はこのタイプが多いようだ。第2世代。
③ デペンデントハウスの系譜のデザインでベトナム戦争以降に作られた米軍住宅。第3世代。ジョンソンタウンでは平成ハウスなどと呼ばれている。

※簡単に判別するために勝手に第1世代、第2世代、第3世代と勝手に名付けた。もしも別の言い方がすでにあるのであればご教示頂ければ幸いである。

HOSONO HOUSEの面影を探して
今はもう存在しないHOSONO HOUSEの外観を見られる写真を探している時に、奇跡的に当時1972年5月15日号の平凡パンチを入手した。その中に松山猛氏が取材された「ボクらの新生活運動:郊外の米軍ハウスに<移民>した若者たちの主張」が掲載されており、WORKSHOP MU!!の眞鍋氏のお宅の前庭と玄関付近の写真が出ている。HOSONO HOUSEもこの集落の中にあったようだが写真にはなかった。記事の中にはWORKSHOP MU!!関係のメンバーの他に小坂忠とバンドメンバーが2軒借りていて、そして「ハッピーエンドのベーシストの細野君なんかが住んでいてその数 二十数名が住んでいる」と記述があった。その次のページには小坂忠が部屋の中でセッションしている写真がある。
その次のページには厚木基地近くの大和市に移住した写真家の加納典明、以前は基地があった立川の近くの昭島市には都内から50人ほどの若者が移住してノース、ニューノース、サウスというコミューンを作ってしまったとある。インターネットで検索しても情報がまったく出てこないが、立川にも相当な数の若者やクリエーターが移住していたようだ。
米軍基地のあった入間のジョンソン基地、横田基地、厚木基地、立川基地、座間キャンプ、横浜・横須賀の基地を繋ぐ軍用道路として発達した16号線の沿線に、アメリカのヒッピームーブメントに触発され「脱都市をマニフェスト」した若者が移住した、とある。
こちらには記載がないが忌野清志郎が暮らしていた「国立ぶどう園」のようなコミューンが当時、都内各所にあったということだろう。

52年前の1972年5月15日号の平凡パンチ。


こちら段写の写真は『狭山 HYDE PARK STORY 1971~2023』にも掲載されている

この平凡パンチに掲載された外観の写真を前出の高野さんに確認していただいた。
「こちらの家はデペンデントハウスのB-1タイプに近いです。その証拠に2枚ドア、表が網戸で内開きタイプのドアで、玄関前のポーチのデザインや換気口の位置などからも推測できます。」との事だった。
その後、御縁があって当時狭山アメリカ村にお住まいだった方にお話しを聞く機会を頂き、住居の仕様などを確認したところ、稲荷山下のハイドパーク住宅区の住宅はHOSONO HOUSEを含め全て朝鮮戦争の際に作られた第2世代ということがわかった。

HOSONO HOUSEの間取りについての記述が2020年に出版された門間雄介氏による「細野晴臣と彼らの時代」にあった。
「細野の家の間取りは2LDKで、玄関を入るとまず十二畳のリビングがあり、その奥にダイニング・キッチンがあり、それらの隣に洋間が二部屋あった。ダイニング・キッチンの隣にある八畳の洋間は、細野の書斎兼音楽室である。リビングと隣りあう八畳の洋間は、普段は寝室として使われていたが、レコーディングではここをスタジオ代わりにした。」
それでこの間取りについて高野氏に再度確認すると、"寝室が二つあるデペンデントハウスはA-1とB-1のみで、リビングと隣接する寝室があるのは「A-1」のみですので「A-1」の間取りだと思われます” とのご意見を頂いた。
なので、外観はB-1タイプで間取りがA-1タイプの、ブラッシュアップされた第2世代の扶養家族住宅であったようだ。
※門間雄介氏は、寝室を「洋間」と記述していると思われる。なお厳密に言うとあくまでも目安の大きさとして「畳」を使用されていると思われる。

こちらはDependent HousingのB-1,B-2タイプの図面。米軍住宅はプライバシーに配慮し玄関の向きを住居によって変えていることが多かったため写真とドアの位置が異なる場合があるそうだ
こちらはDependent HousingのA-1タイプの図面

日本初の宅録の「世紀の名盤」はこの環境下で生まれた
これだけ広い部屋でこの賃料というのは現代でも羨ましい限りで、1970年代初頭の若者にとっても信じられないほどの好条件だったのではないだろうか。日本で初めて機材を自宅に持ち込んで録音した作品「ホーム・レコーディング」の傑作ができたのは、まず部屋が広く機材を搬入することができたために実現できたとも言える。(室内を写した写真は結構ある)さらに当時の日本の一般家庭では考えられなかったセントラルヒーティングによる床暖房や給湯システムが完備され、欧米式のキッチンやシャワー付きバスと洋式トイレがあり、フローリングで靴ばきのままの生活という、当時の日本の一般的な生活からかけ離れた言わば「非日常的な」空間が月額22,000円と当時としても破格で借りることができた。
いずれにしても、このような好条件が重なったことが、「狭山アメリカ村」のコミュニティを形成し名作「HOSONO HOUSE」が生まれるきっかけとなった。

当時のエピソード
シングルカットされた「恋は桃色」にHOSONO HOUSEのことを書いたと思われる一節がある。

土の香りこのペンキのにおい
壁は象牙色空は硝子の色

アメリカの一般住宅の壁はペンキで塗られることが多く、ホソノハウス内部の壁も象牙色のペンキで塗られていたのだろう。その後の歌詞では黴について歌われているが、このエリアは湿気が多く黴が生えやすかったとのお話しも当時近隣にお住まいの方から聞いた。それが名曲の歌詞になった。
細野氏の伝記「細野晴臣と彼らの時代」に「小坂忠と糸電話で遊んだ」との記述がある。隣に小坂忠が住んでいた。そんなエピソードを聞くととても親近感が湧いてくる。さらに「狭山 HYDE PARK STORY 1971~2023」を見ると、当時の異国的でもあり日本的でもある狭山アメリカ村の穏やかな郊外の雰囲気が伝わってきた。



結局、当時のHOSONO HOUSEの外観の写真は見つからなかった。当時の住宅地図はどうなっているのかと思い1974年の狭山の住宅地図を見てみた。


HOSONO HOUSEがあった。

◯の中にHOSONOとある。英語表記なのが興味深い


当時の航空写真と合わせてみた。
当時のHOSONO HOUSEの窓から見える山に見えるのが奥の山林か


位置関係を見るためにジョンソン基地とハイドパーク住宅区を地図にしてみた。

オレンジ部分がハイドパークと赤い部分もハイドパーク住宅地、
緑部分がジョンソン基地、現入間基地

オレンジ部分がハイドパークと呼ばれていた稲荷山公園。麻田浩氏が2023年にハイドパーク・ミュージック・フェスティバルを開催した場所でもある。入間市の資料などから赤い部分がハイドパーク住宅區、緑部分がジョンソン基地であり現在、航空自衛隊 入間基地となっている。下部の赤い正方形の部分はジョンソンタウンである。

レストラン NICK'S

地図に下線を付けたが、当時から営業しているレストラン ニックスがある。「狭山 HYDE PARK STORY 1971~2023」 にもいくつか写真が掲載されている。1961年から営業を続けているアメリカンスタイルの老舗レストランであり、実際にハンバーガーを食べたが非常に美味しかった。当時の狭山アメリカ村に住んでいたクリエイターの方々や、もちろん細野氏も通っていたのだろう。

おわりに
このように「狭山アメリカ村」とはハイドパーク住宅区と呼ばれていた狭山市の稲荷山公園に隣接した第2世代の米軍ハウスに「二十数名」の高感度のクリエイター達が都内から移り住みクリエイターズ・ビレッジを形成し生活していた。そしてジョンソン航空基地に勤務する米兵、周辺に住んでいたその家族との交流しながらアメリカン・カルチャーを吸収し、音楽、デザイン、アートなどを次々と生み出して行った。
そして当時のことを調べて判明したことが「狭山アメリカ村」に最初に住み始めてコミューンを作ったのは「Work Shop MU!!」の方たちということがわかった。

Hosono House オリジナル盤のインナースリーブ。個人所有
コロンビア レーベルの SP盤の外袋
(SP盤時代はジャケットがほぼ無いためこのまま販売されていた)
Around and Around Record collecting から画像を転載


たぶんこちらが元ネタなのでは、と読んでくださった方からご教示頂きました。
capitol6000.comから画像を転載

ジャケット裏面にクレジットされているが、HOSONO HOUSEのアートワークはWork Shop MU!!が手掛けた。オリジナル盤に付属するインナースリーブやラベルは1940年代の古いレコードをオマージュしていて、非常にこだわって作られている。ここまでディテールにこだわって作った日本初のレコードであり、1940-50年代のグラフィックリバイバルのブームの魁なのではないか。そんな眞鍋氏が「武蔵野樹林 vol.10 」でこう述べている。「『HOSONO HOUSE』の中袋は、コロムビアかなんかの古いSPレコードの内袋のデザインをロゴタイプだけ変えてるんです。細野君が、これがいい、これを使ってくれと言って。HOSONO HOUSEのロゴは、太い黒マジックで僕がククッと書いたのを使った。」
「Work Shop MU!!」に関しては本が1冊出ているが、それ以外に詳しい情報はネット上にはほとんどない。しかも、この本自体も数万円のプレミアム価格で販売されている。調べれば調べるほどこの「Work Shop MU!!」の存在が非常に気になってきた。

つづく

レコードの販売・買取を行っております。よろしければ是非ご相談ください!(NOTEを見たと一言書いて頂けますと幸いです)


謝辞
キャンプ・チッカマウガ研究家 高野壽穂さんには沢山のご助言を賜りました。心より感謝申し上げます。高野さんのデペンデントハウスの御知見により、当時の輪郭がくっきり見えてきました。
高野さんのブログやYOUTUBEで公開されているチッカマウガを3Dで再現した動画や記事がすばらしいので是非御覧ください!
高野壽穂(たかのひさほ)のブログ hisaho-tさんのブログです。最近の記事は「Video of "Camp Chickamauga" is now av ameblo.jp
https://www.youtube.com/@RadioLab.-qp6iu
Radio Lab. Share your videos with friends, family, and the world www.youtube.com

https://capitol6000.com/sleeves.html


参考サイト

福生アメリカンハウス
ジョンソンタウンの名前の由来
ジョンソン基地とハイドパーク展
横田基地
70年代ロックの震源地は狭山米軍ハウスだった!〝呼び屋〟麻田浩がこの街に返したかったもの(後編)
「HOSONO HOUSE」50周年記念盤
ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルとは - Hyde Park Music Festival
https://aroundandaroundcom.wordpress.com/columbia-45-sleeves/

参考書籍
細野晴臣と彼らの時代 門間 雄介 文藝春秋
DEPENDENTS HOUSING デペンデントハウス : 連合軍家族用住宅集区 商工省工芸指導所編
平凡パンチ 1972年5月15日号 
狭山 HYDE PARK STORY 1971~2023 麻田浩 (監修), 野上 眞宏 (写真) トゥーヴァージンズ
武蔵野樹林 vol.10 KADOKAWA 2022年夏


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