【渋谷の歴史 vol.5「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツ」】
渋谷の歴史 vol.5「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツ」
1964年まで渋谷には日本人が入れない「アメリカ合衆国」があった。
日本は太平洋戦争に負けた後、アメリカが現在の代々木公園(旧代々木練兵場)を占領し「ワシントンハイツ」と名付けた。占領下では接収した場所やビル、主要な通りには英語名がつけられた。例えば井の頭通りは渋谷西武から富ヶ谷辺りまでが35th Street、そこから吉祥寺まではStreet”G”と呼ばれていた。
恵比寿にはEBISU CAMPがありイギリス連邦占領軍(主にオーストラリア軍)が駐留していた。参考資料(2)
ハーディー・バラックス (Hardy Barracks) と言われていた現米陸軍赤坂プレスセンターは、現在も六本木の国立新美術館の隣にある。プレスセンターをはじめ、米軍人の紹介でのみ宿泊できる施設や、今でも思い出すが東日本大震災の時などにかなり離着陸が多かったヘリポートがある。駐留が続いている。
昭和25年には全国に新築と接収した住宅を含め13000個もの米軍住宅があったそうだ。
都内では終戦後すぐに米軍が代々木錬兵場に駐留し、1946年8月に起工し翌年の1947年9月にワシントンハイツ竣工。約1年で827戸の住宅と関連施設を含む「アメリカの街」が急ピッチで作られた。
終戦の1945年からサンフランシスコ平和条約が締結された1952年までの8年間にわたり、日本はアメリカを中心とした連合国軍の占領下に置かれた。ワシントンハイツでの駐留は1963年まで続いた。
ワシントンハイツには827戸の家族向けの住宅が作られ1964年に返還され東京オリンピックのオリンピックの選手村として使用されたあと、代々木森林公園(後に代々木公園に改称)となり、駅に近いエリアはNHK放送センターや国立代々木競技場、渋谷区役所、渋谷税務署、そして神南小学校となった。国立代々木競技場も完全返還前までは「ワシントンハイツ内競技場」と呼ばれていた。
ワシントンハイツ#257
現在、代々木公園の原宿門から入って右側奥に位置するオリーブ広場の更に奥に、平屋のアメリカ風住宅がある。この住宅は唯一、1戸だけ現存するワシントンハイツの住居#257である。かつて1964年の東京オリンピック選手村の一部としてオランダの選手団の宿泊施設として利用された。現在もその当時の姿を今に伝えている。ただし、不思議なことにその看板には「ワシントンハイツ」という名称の表記はどこにも見当たらない。
出典 代々木公園|公園へ行こう!
出典 Washington Heights - The Memory Lingers On 16:05頃に#257の表記あり
ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後
2010年に発売された「「ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後―秋尾沙戸子」」を読んで衝撃を受けた・・・恥ずかしながらこの本で初めて「ワシントンハイツ」の存在を知った。このエリアに隣接する場所で長年商売をしているにも関わらず、である。渋谷に関係のある方はぜひ読んでほしい。素晴らしい本である。
これを読んだちょうど同時期に、青山生まれ青山育ちで戦争を体験した方からお話を聞く機会があり、読んだ内容とお聞きした話がぴったりリンクして非常に興味が湧き、渋谷の歴史を調べ始めるきっかけとなった。さらに当時ワシントンハイツに住んでいたアメリカ人の方達のグループがSNS上にあってそのグループ経由でも色々と情報を得ることができた。当時住んでいた方々でご存命の方は、幼少期を過ごされていた方が多く、詳細はわからないことも多いが、大変参考になった。
こんなことが重なって、私の渋谷のミッシングリンクを埋める作業が再び始まった。
ワシントンハイツに関する書籍
今までに出版されたワシントンハイツに関する書籍はいくつかある。その中で写真家の山村雅昭氏の写真集ワシントンハイツの子供たち 山村雅昭写真集のコメントにワシントンハイツをわかりやすく説明した秋尾沙戸子氏のコメントがある。
”ワシントンハイツとは
東京の真ん中に1947年から1963-5年まで存在した米軍家族住宅街。敷地面積 27000坪。現在の代々木公園、NHK 放送センター、国立代々木競技場、青少年総合センターー帯は、「日本の中のアメリカ」だった。
ダグラス・マッカーサーに率いられたGHQ (連合軍最高司令官総司令部)は、終戦後まもなく、日本帝国陸軍の代々木練兵場を接収、占領軍兵士とその家族のために、アメリカ本国さながらの街を造り上げた。平屋・二階建てのプレハブ住宅827戸に加え、幼稚園、小中学校、教会、劇場、ナイトクラブ、クリニック、プール、テニスコート、野球用グランド、PX(ドルで本国の商品が買えるミニスーパー)、変電所、消防署、ガソリンスタンドなどが備わっていた。家々には食器や細かいキッチン用品まで取り揃えられ、米軍兵士の家族は本国から私物を詰めたスーツケース2個だけで来日した。
青々と茂る芝生でたわむれる子どもたち。冷蔵庫付の白い家で料理する主編。東京の焼け野原に忽然と姿を現したワシントンハイツの中では、アメリカのテレビドラマさながらの日々が営まれた。外から眺めることはできても、貧しさのどん底にあった日本人が足を踏み入れることが許されなかった「禁断の世界」。そこから垣間見える「アメリカ的価値」は、東京で暮らす人々の描く将来像となり、ワシントンハイツを核にアメリカ化の磁界が形成されていった。 60 年安保闘争を機に、アメリカは東京の中心にあるワシントンハイツを壊すことを決意。東京オリンピックの選手村として使われた後、ワシントンハイツは完全 に姿を消した。現在、オランダの選手が利用した家が一軒だけ、代々木公園に残っている。”
青山から渋谷にかけての山手大空襲で被害を受けたワシントンハイツ周辺に住む方々から見れば「青い芝生に白い家に結婚して家族のいる(ワシントンハイツは扶養家族専用の住居だった)衣食住に困らない不自由のない生活」を、金網ごしに見せつけられた当時の周辺にお住まいの方たちは、苦々しくもアメリカへの憧れが募ったと思う。
ワシントンハイツの残骸を探して
代々木公園のサービスセンターでお話しを聞いた。今でもたまにワシントンハイツの元住人の方がアメリカから散策に来られ当時を非常に懐かしがられているそうだ。園内にはかなり太い巨木も多く、当時の地図にも樹木の記号が多い。それで以前から気になっていた樹木のことを担当の方にお聞きした。「太い木が多いですが、これは何故なんですか?」と聞くと「ワシントンハイツができた時に植えれた木は基本的に切ってないと思います。公園になった時にも植樹しているので当時よりかなり増えていると思います」とのことだった。
東京の森づくりに励もうと、代々木公園はその第一歩として生まれた
オリンピックでワシントンハイツの住宅は選手の住宅として利用されたあと、257号室の1棟以外全て解体され、当時の道路や施設は跡形なく公園として整備された。当時のレガシーはこの住宅以外の石垣や階段などは全くないらしい。しかしワシントンハイツ時代に植樹された樹木だけは切らなかったそうだ。そのために公園内には巨木も多い。代々木練兵場時代から残る木もあるのではないかと思う。
当時の大東京年鑑という本に、東京は高度経済成長の副産物として”スモッグ、煤煙、騒音”などの公害がひどく、“関議により方針が決定されたものであるが、その際この公園は森林を主体とするものしすなわち森林公園として性格づけられている。”とありまた、“またオリンピックに関する意見書は「各競技施設は、世紀の祭のは貴重な遺産として都が管理し、スポーツ振興、青少年育成のために活用すること、また選手村として使用した代々木公園は速かに都の森林公園にすること」という内容のもので、議決の上政府に提出された”とあるため、当時の東京都内の深刻な公害や大気汚染、急激な都市化による森林の減少などを鑑み、明治神宮の森と並んで遜色のない樹木の多い森林公園にしようという事になったのではないだろうか。(大東京年鑑 昭和41年版 28P)
当時、公園の設計はコンペで決められた。何故か2位のデザインが採用され揉めたようだが、結果的に良かったのは当時植樹された樹木を残したデザインになった事だと思う。
ワシントンハイツについて調べ始めると色々な意味でびっくりした。いろんな事の源流であり、その後の渋谷の歴史について避けては通れない「歴史」であることは間違いない。今後も続きますのでよろしくお願いいたします。