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【渋谷の歴史 vol.6 「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツとデペンデントハウス(Dependents House)」① 】

*トップはワシントンハイツの略図。左側が参宮橋駅方面、上側が原宿駅方面。

ワシントンハイツの存在を知る人も減り、返還されてからすでに60年経過し当時のことを知る方がかなり減っている。何とかこの存在を知る方の話しや資料をまとめて残したいという思いに駆られている。教科書に載ってないが非常に重要な歴史なのだ。渋谷で商いをする者として渋谷の音楽文化と歴史に非常に関係ある点と点を繋いで行きたい。

現在代々木公園がある場所にアメリカ軍専用住宅「ワシントン・ハイツ」があった。変換された1964年、約60年前まで1万人近い米軍兵士とその家族が住んでいた。そしてそこは調べれば調べるほど戦後の日本の衣食住、そして音楽に影響を与えた場所であったことがわかってきた。そして50代以上の方が多く憧れたアメリカン・ハウスの原型ということがわかった。


【扶養家族向け住宅の設計仕様書「Dependents House(デペンデントハウス)」】


軍の命令によって日本に赴任した米兵とその家族は、用意された扶養家族向けの家具付き住宅Dependents House(デペンデントハウス)に滞在した。
独身及び、単身赴任の幹部はBachelor Officers' Quarters(BOQ)の専用宿舎に滞在し、少尉以下は兵舎に滞在した。

当時、赴任が決まると兵隊とその家族はスーツケース一つで来日した。当初、アメリカから船で横浜港に到着したそうだ。そこは「住人であるアメリカ人が、母国と同じような生活を継続できることを前提として設計を行うべき」との軍から配慮された居住エリアは、アメリカ本国と同レベルの住環境が与えられた。青い芝生に新しい家。日本人女性のメイドが家事は全て行っており、赴任された兵士とその家族にはアメリカ本土での生活以上の生活があったとの記載もある。そこには幸せなアメリカの生活があった。なお、この住宅は日本の負担で作られた。

ワシントンハイツについて色々調べているうちに、Dependent Housing・デペンデントハウス(以下DH)というGHQが発行した設計図を含む書籍があることがわかった。扶養家族向けの家具付き住宅の家具や什器、日用品までも日本で調達できる資材で製作可能な資材で設計を指示した書籍である。2500部のみ作られたそうだ。

商工省工芸指導所編 DEPENDENTS HOUSING(デペンデントハウス 扶養家族向け住宅)古書店ではかなりのプレミアがついており状態の良いものは20万円程で取引されている。

国会図書館に所蔵されており会員登録すると見る事できる。
DEPENDENTS HOUSING デペンデントハウス : 連合軍家族用住宅集区 商工省工芸指導所編  ENGINEER SECTION編 DEPENDENTS HOUSING


こちらは英語版のDependent Housing。(個人所有)本国への概要報告書的書籍だった。


そして、当時の資料や関係者のインタビューをまとめ、「デペンデントハウス」を解説したこちらの書籍が本当に素晴らしい。
占領軍住宅の記録 上 (日本の生活スタイルの原点となったデペンデントハウス) (住まい学大系 ; 96)
占領軍住宅の記録 下 (デペンデントハウスが残した建築・家具・什器) (住まい学大系 ; 97)

戦後の日本の生活様式の基礎になった
この「デペンデントハウス」が現在の日本の西洋式の生活、インテリアなどの基礎になったとの記述がある。連合国軍が国内の建築会社や家具メーカーに家、家具、什器(日常生活用の器具)を発注したことにより商品を委託製造した結果、国内の製造技術が向上し、結果的にその後の現代の日本の建築やさまざまな産業が復活する礎となったとある。

完全な米国式住宅でなく和洋折衷式の住宅だった

現存する257号室は、以前から日本家屋とは言えないしアメリカにある一般的な住宅にも見えないと思っていた。

大好きな恵比寿のファニチャーショップ「パシフィックファニチャー」の代表 石川容平氏も雑誌のインタビューでこんなことを仰っていた。(パシフィックファニチャーについては今後詳しく書きたいと思う)

「米軍ハウスと聞くと、アメリカ然としたイメージが先行してしまいますが、実際にはロサンゼルスに行ってもニューヨークに行っても、アリゾナに行ってもあんな風景はどこにも探せない。米軍ハウスが作られた最初期は、占領軍が日本の職人に日本の木材で住宅を作らせていたし、梁を思わせる日本らしい意匠が取り入れたところがあったことを考えても、彼らが極東の地、日本で住むにあたって好んだのは、当時アメリカで流行していたモダンな要素そのものではなく、むしろオリエンタルなものとアメリカ的なものが融合した、全く新しいものだったんです。僕自身は、米軍基地のフェンスの向こうで繰り広げられていた、少し危険な香りが漂うハウスの雰囲気がたまならく好きでした。日本にあって日本ではない、かといって実はアメリカというわけでもない。ダークサイドな部分も持っている“あいのご”のような一面に魅力を感じるんです」 

出典元:X-Knowledge HOME Vol.13 2003年march

色々な資料や写真を見ると、入間や福生に残る米軍ハウス、そして座間や本牧など色々な場所にあった米軍ハウスは同様に独特な感じだなと思っていたら「占領軍住宅の記録」にこんな記述があった。

英語版のDependent Housingの中に「American overall appearance with Japanese sliding windows and tile roof. 」(「日本の引き違い窓と瓦屋根を持つ、全体的にアメリカンな外観。)と記載されている。

“DHについては終戦・占領によって生ずる様々な問題の中で検討され、日本式の工法や生活様式までかなり詳しく調査・研究していたことがわかる。例えば、日本の柱とマグサ(Lintel)、の上のアメリカのトラス構造、日本の引き違い窓と西欧の上下げ窓、日本のタイル貼り浴槽と西欧の設備・配管等があり、妥協の結果として、完成DHの写真に「日本の引き違い窓と瓦屋根で、全体としてはアメリカ風外観」というような説明が付されている。”とあり、あえて和米折衷な構造とデザインを取り入れたことがわかる。

出典元:占領軍住宅の記録 上 (日本の生活スタイルの原点となったデペンデントハウス) (住まい学大系 ; 96)

ディペンデントハウスの17ページにあるワシントンハイツの住宅の図面。257号室はB-2タイプと呼ばれていたモデルだった。  


現在の257号室。B-2タイプの写真とほぼ同じ形で残っている。


257号室の引き違い窓。アメリカの住宅には引違い窓はほとんどないようだ。

257号室の瓦屋根。アメリカではほとんど見ない和風な屋根である。

残念ながら現在の257号室の内部はリフォーム中で床が剥がされ根太が丸見えになっている。


Dependents Houseが多くのクリエーターに影響を与え数々の名作が生まれた。

戦後すぐに各地に建設されたディペンデントハウスで、代々木公園に唯一残るワシントンハイツの257号室は、後にクリエーターが移り住んでいた各地のアメリカンハウスに近い規格であることがわかった。

この間取りの家が日本各地に数多く作られた。朝鮮戦争の際には住宅が足りず、建設を委託された日本の業者が少しアレンジを加えたスタイルで建てられた。福生や入間に残るアメリカンハウスはこのスタイルのものが多い。
そして70年代以降に日本に返還された後に民間に貸し出され多くのクリエーターに影響を与え数々の名作が生まれ、後の日本の西洋式の衣食住と音楽シーン、そして渋谷系、シティポップブームへと繋がっていると思う。

そしてこのディペンデントハウスやディペンデントハウス内で使われていた家具は1人のアメリカ人工業デザイナーが全て監修していたことがわかった。
つづく


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