#05. そのイカ、ポン!
大学に進むのに1年、大学を卒業するのに1年、よけいな迷惑をかけながら、回り道をしながら、私は社会に出ていくことになる。
就職試験で「大学生のとき、何やっていたの?」と尋ねられても 、「クラブ活動を目いっぱいやっていました!」としか応えられなかった。というか、これだけは一所懸命やってきた。
高校から始めた軟式テニスを、大学に進んでもやることにした。ほんとうは、当時、流行だった硬式テニスのサークルに入って、男女とも和気あいあいの楽しい学生生活を送ろうと目論んでいた。ただ、理科系の学校だったせいか、想像していたほどのお気楽なものはなく、高校のときにやっていたスポーツをそのまま継続することにした。
入部の説明会では、「平日の授業後と土曜日は練習があるけれど 、原則、試合の前以外は日曜日、祝日はお休みだよ」といわれた。が、実際に入ってみると、試合前とは2か月前のことで、日曜日も祝日も関係なく、授業前の朝練も含めて、一日中、練習に明け暮れた。
私の甘い読みに反して、体育会系のガチなクラブだった。
試合前は禁酒と禁麻雀が義務づけられた。ずいぶん上の先輩たちが酒を飲んだり、麻雀をやり過ぎたりしたせいで戦績が悪かったせいか、代々、このしきたりだけは受け継がれていた。
私の同期たちも真面目にこの規則を守っていた。もちろん、自分たちの下宿先の部屋でも誰ひとりとして飲まなかった……。 と 思う。 ひとりがルールを破るとチームが負けてしまう、そんな思いを強く抱くほど 団体戦の勝ちにこだわっていた。
しかしながら、禁麻雀だった期間でも、やりたいものはやりたい。やめろと言われると、かえって麻薬っぽく、うずうずしてしまうのも人間の業である。厚紙で作 った「寿司麻雀」ならいいだろうと、部室でやっていたこともある。
「そのイカ、ポン!」
人間とは実に自分の都合のいいように解釈する生きものである。
土日でも雨が降ると、練習は中止となった。少々の雨であれば、人海戦術でバケツと雑巾を使って、クレーコートに浮いた水をすくい、なんとか使えるようにした。朝から本格的な雨となればそうもいかず 、連絡網で中止を伝えあった。
それゆえ、週末はいつも雨乞いをした。
私はしょっちゅう、同期の部屋に泊まりにいっていた。ある朝、目覚めると、ボツ、ボツと雨音のような音が天井から聞こえてきた。
「おーー雨じゃん、やったー!今日は練習やすみじゃん」と嬉しさいっぱいで友人に言う と、「え?」と冴えない顔で応える。
窓を開け、外を眺めると、「空が高く、快適な気温ですね。運動するには最適な日です」と テレビのアナウンサーが語っているような景色が広がっていた。
雨音もどきの正体は、ポットでお湯を沸かしている音だった……。
自分の下宿先からも友人のところからも、毎朝5時に起きて コートに向かった。授業も適当にさぼって、昼間もテニスの軟式球 を打っていた。
「はっと我に返る とコートにいるよなー」と、よく同期と話していた。
当時の私は、なんでも一所懸命やればうまくなると思っていた。テニスはそこそこ好きだったが、クラブ仲間と比べると テニスのセンス や運動神経には圧倒的の差があった。さらに、高校までの練習量が違い過ぎて、入部したときから実力には大きな差がついていた。
同期の部員には、高校時は インターハイに出場したものも多く、なかには国体で優勝した強者もいた。どんなにがんばっても、私が追いつけるレベル ではなかった。
人間には凸凹の能力があり、努力はときに報われないこと もあると、もっと先に知ることになる。
とくに関東のリーグ戦は、どの学校もチームの状態をピークにもってきていた。当時、サッカーでいうところの「J-1」や「J-2」のように、それぞれ6校で構成する13もの部に分かれていた。毎年、春と秋には各部で総当たり戦が行われ、ここで優勝すると、ひとつ上のリーグに所属する学校との入れ替え戦に参加できた。
私の部は伝統をとても重んじてきた。そのため、先輩たちが代々、築いてきた位置を守るのが最低限の使命であり、上のリーグに行ければ最高な気持ちになった。
私が入部したときは4部にいた。その後、5部に落ちたこともあるが、3部に上がったこともあった。1部、2部はほとんどが日体大、東京学芸大などの体育系の勉強をしている学校で、3部からようやく一般の大学が入ってくる 。驚くことに 東京大学はずっと3部の座をキープしていた。
「天は二物を与えず」と言う が、ウソである。
文武両道の才人が世の中にはいるのである。東大生の中には 、インターハイで準優勝しているものもいた。
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