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#07. すべての体験は財産である

劣等感ばかりの学生時代ではあったが、幹部学年のときの同期のまとまりのなさや、レギュラーとして試合に出られなかった経験が、あとあと、私自身のリーダーとしてのあり方のヒントにもなっている。

また、留年も、けっして私にネガティブなものばかりをもたらしたわけではない。

大学4年めは、1年にわたって女子チームの監督を努めることなった。いままでの部の慣例として、留年した人が女子チームの監督を依頼されることが多かった。卒業までに必要な残りの単位数が少ないのが依頼される理由の1つだったのだろう 。男子チームの監督は、毎年、大学院に進んだ者の中から試合で実績がある人が選ばれていた。

私自身、選手としての実績はまったくないし、技術的なことを教える力もほとんどもっていなかった。その年の女子チームのメンバーは、高校で 国体を経験した者から大学から軟式テニスを始める初心者まで、さまざまな実力の持ち主が混じり合う凸凹なメンバーだった。人数も団体戦を戦うギリギリの6人(ダブルス3組)だった。

初めは名ばかり監督だったが、 なぜか、関東学生リーグ戦に関東理工系リーグ戦と、団体戦は出る試合、出る試合、すべて勝つことができた。とくに関東学生リーグ戦では、春と秋の大会ともに上位部の最下位チームとの入れ替え戦にも勝利し 、2大会連続で昇格した。

3つのペアがすべて勝つことは一度もなく、どの試合も2勝1敗だった。確実に勝てるペアを一組だけ作り、対戦相手を徹底的に分析し、あとはどちらかが勝てるようにオーダーを組んだ。責任感の強い主将ペアには、負けてもいいからとにかく自分たちで考えてプレーすることを徹底させ、その他のペアはひたすら褒め続けた。

入れ替え戦に勝ったあとに、アンナミラーズでビールとケーキを飲み食いし、チームのみんなと喜びを分かち合った当時の気持ちをいまでも覚えている。
アンナミラーズは、いまではほとんどなくなってしまったが、のちに秋葉原などで流行する、メイド風のかわいい制服を着たウェイトレスが有名なレストランで、洋食やケーキなどがとても美味しかった 。

大学時代で実績らしい実績と言えばこれぐらいだが、この女子監督の経験はいまでも自分の自信につながっている。

入学して5年めの初夏、研究室で卒論用の実験を計画しながら就職先を探していた。もともと、機械に興味があったわけではないし、自分の適性もわからず、どんなことがやりたいのかもはっきりしていなかった。人に何かを教えたい、そんな気持ちだけはあったが、教えるとなると教職しか思いつかず、工業系の学科で教師となるとすれば、理科や算数ではなく、技能を教えることしかできなかった。となると、もっとも私の不得意とするところになってしまう。

いずれ家業を継ぐものだと思い込んでいたし、「メーカーだったらどこでもいいかな?」「英語を話す人たちがまわりにいたらかっこいいじゃん?」く らいの軽い気持ちで外資系のカタカナ企業の会社を探した。ただ、私自身は英語を大の苦手としていた。

いまの学生の就職状況とは大きく異なり、当時は理工系であれば、ほとんどが教授の推薦状を持っていけば 、そこで働くところが決まった。企業側から募集人数の枠の連絡があり、学生たちはそれまでの成績順で応募先を1社だけ決めることができた。

とくに入りたい会社もなかったし、企業の詳細な活動内容を調べる実力もなった。従業員が何万人なんて大会社では、自分の力も出せないだろうと思っていたし、かといって、小さな会社は大学に求人もない。また、知名度がない、あるいは、上場していない会社は何を行っているのかも知りようがない時代だった。

他の人と同様、教授の推薦状を手に就職試験に臨んだ。技術的な筆記試験があり、学業の成績も当然のごとく合否を決める 材料になった。成績表を見ながら、面接官に「学校では何をしていましたか?」と質問をされ、「クラブ活動を一所懸命やってきました」と応えるも、「体育系の学部でないでしょ?」と切り替えされ、一瞬で「シュン!」と小さくなった……。その場で血液検査までされたが、その会社は不合格となった。

横河ヒューレットパッカード社であった。

地元の公立高校を卒業して、同級生ととも に名古屋駅前の予備校に1年間通い、彼も私と同じように理科系の学校をいくつも受験した。私は幸いにも大学に合格することができたが、彼はすべて不合格となってしまい、二浪して大学に進んだ。

この時点で、私は彼よりちょっとだけ先にいくことができたのだ。 私は前述のとおり、留年している。彼とは大学は異なるが、最終的には同じ学年となった。卒業の間際に彼が私のアパートに手土産としてワンカートンのタバコを持ってやってきた。

就職先は、横河ヒューレットパッカード社だという。

人生、何が幸いとなり、何が禍となるか、まったくわからない。すべての体験が貴重な財産であるといまは思う。

外資系企業は実力がものを言う。そんなことも知らず、懲りずにカタカナ企業を探し、推薦状を就職課にもらいに行った。1989年、時代はバブル期の真っ只中で、どこでも就職できるムードが漂っており、学生側も思い上がっていた。財テクがはやり、お金がお金を生む時代だったからか、機械科なのに銀行の営業を志望した仲間たちも少なくなかった。

部活の先輩が働いていた会社(株式会社山武ハネウエル)を知り、私はようやく、そこに就職することができた。

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