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夜のパリに棲む写真家ブラッサイ

20世紀を代表する写真家の一人、
パリの夜景写真で広く知られる
写真家ブラッサイをご存じだろうか。

彼はハンガリー出身の写真家で名前は正式には
(Brassaï、本名:ジュラ・ハラース、
1899年9月9日 – 1984年7月8日)です。

<写真家としてのデビュー>
彼の写真の特色はドアノーやブレッソンとは
違い、夜のパリを好んで撮影していました。
フランスの首都パリの生活や文化を、独特の視点と
美意識を持って捉え、それが評価されたいったのです。

彼の父は文学者であり、家庭環境は
美術や文学に触れる機会が多く、
表現と言うものへの関心は自然と
育まれたのです。

やがて、1924年にパリに移住すると、次第に写真という
表現方法に引かれるようになりました。
パリは当時、モダニズムの芸術家たちが集まる
一大拠点であり、ブラッサイもその芸術的な
エネルギーに触れ、自身の表現方法を模索していきました。
パリの20年代と言えばエコールドパリの時代、
画家や詩人たちが多く集まった時代です。

パリで生活を始めたブラッサイは、生活のため
ジャーナリストや画家として働きながら、
生計を立てていました。ただ、その中で次第に
写真に対する関心は日増しに強まり、やがて彼は
夜のパリの街並みや市民の生活を撮影することに
熱中するようになります。

当時のブラッサイは写真家アンドレ・ケルテスの
表現に影響を受けていました。その中で
カメラによってパリの夜の美しさとその暗がりに
潜む詩情を捉えることに夢中になって行ったのです。

<夜のパリの写真家誕生>
1933年、ブラッサイは最初の写真集
『夜のパリ(Paris de Nuit)』を出版します。
この写真集は、彼が夜のパリを歩き回り、
さまざまな場所や人々を撮影したもので、
当時としては革新的な作品でした。

街灯や霧、反射などの光と影を巧みに操り、
夜の街の詩的な側面を見事に表現したのです。
特に注目するべきは当時のパリの歓楽街やカフェ、
裏通りなどが数多く収められており、観る者に
生々しい息遣いを思わせる「もう一つのパリ」を
感じさせる内容となっていました。

「もう一つのパリ」を見事に表現した彼は
一躍名声を得ることになりました。
パリの夜を捉えた「夜の写真家」として
押しも押されぬ地位を確立したのです。

<独自のスタイルと技法>
ブラッサイの写真の特徴は、光と影の
コントラストを強調することにあります。
夜間に撮影するために長時間露光を用い、
街の光と影を巧みにコントロールしました。
街灯や車のライトが描き出す軌跡、霧や雨が
光を反射する様子など、夜の風景に特有の詩的な
雰囲気を醸し出すことに成功しました。
彼の作品には、静寂とともに都市の雑踏が
共存するパリの夜が映し出され、そこには
夢幻的でありながらもリアリズムに
満ちた表現が見られます。

また、ブラッサイは被写体選びにも独自の美意識を
持っていました。彼は一般的な観光名所や
綺麗な風景を好まず、むしろ社会の影に生きる人々や、
都市の「裏側」に強い関心を持っていました。
彼の作品には娼婦、酔客、浮浪者など、当時の
社会においてあまり注目されなかった
人々が多く登場します。
こうした視点は、彼が単なる記録写真家ではなく、
都市の生活と人間性を鋭く捉える「アーティスト」
であることを示しています。
それが私が好きな所以でもあります。

<ブラッサイが写真表現に残した功績>
ブラッサイの作品は、写真史においても
非常に重要な位置を占めています。彼のスタイルは、
ドキュメンタリー写真と芸術写真の境界を曖昧にし、
写真が持つ可能性を広げました。後に多くの写真家に
影響を与え、特に都市風景やナイトライフをテーマ
にした作品においては、彼の影響が顕著に見られます。

彼の作品には独特の詩的な感性があり、それは単なる
記録写真にとどまらず、都市の記憶や時間の流れといった
哲学的な要素をも感じさせます。
ブラッサイは晩年になっても創作活動を続け、
1984年にパリで死去するまで、芸術に対する情熱を
持ち続けました。彼の死後も、その作品は世界中の
美術館やギャラリーで展示され、写真史において
高く評価されています。

by. kai

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