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ピオリアのロッカーで垣間見た素のイチロー選手

イチロー選手が昨日、3月21日の試合を最後に現役を引退することになった。

僕は前職も含めこの春でスポーツ業界まる26年。その26年間のスポーツ業界歴のなかで間違いなくハイライトのひとつが、イチロー選手と仕事で関われたことだ。

2001年イチロー選手のデビュー時には2回目のアメリカ滞在がまる3年となり、アメリカには日本人野球担当が僕しかいなかったため、何かあった時は対応するようにと言われた。

このころは今は引退された野球グラブ作りの名人、坪田信義名人の渡米の際の通訳兼アテンド役を務めるようになっていたので、イチロー選手メジャー行きに伴い、グラブ納品やフィードバックのために名人が渡米しイチロー選手を訪問する際には毎回、有難いことに同席する幸運に恵まれた。

毎年キャンプ時に、坪田名人がこの日のために、イチロー選手のために、精魂込めて作ったグラブを届けに渡米する。

マリナーズのキャンプ地訪問は、イチロー選手がマリナーズに行ってからは、たいてい移動日翌日の全体スケジュールの初日。

日本で手作りで作った、出来立てほやほやのグラブを、誰にも預けることなく坪田名人が手荷物で丁寧に持ってきたミズノプロのグラブを、マリナーズのキャンプ地、アリゾナ州ピオリアのスポーツコンプレックスのロッカールームでイチロー選手に直接手渡す。

その坪田名人に帯同してイチロー選手にお会いする。

それがメジャーリーグキャンプ訪問時の当時の毎年の儀式=2月中旬のルーティーンの仕事となっていた。(なんて最高な仕事だったのだろう!!)

イチロー選手にはじめてきちんとお会いしたのもロッカールームだった。そして印象に残ったのは、そのグラブに手に入れた時の表情。

まるで子供が初めての野球グラブをクリスマスプレゼントでもらったかのような、目がキラキラした表情だった。まさにそれは野球が大好きな野球少年の表情そのもので、非常に印象的だった。

振り返ると当時、ピオリアの空気は非常にピリピリしていた。いまでこそ、すでに殿堂入りが噂されるメジャーリーグ界のレジェンドだが、メジャー1年目のスプリングトレーニングの時期は、「日本でスターでもアメリカでは無理だろう」→「なのになんでそんなにもてはやされているんだ」→「むかつく」的な空気がアメリカ人側から漂っていた。

毎日100人近くイチローの取材にフィールド周りをうろつく日本人記者群も目立つこともあり、「邪魔なんだよ」と鬱陶しがってる選手たちがいたのだ。

僕自身も当時のマリナーズの主力の一人、ブレット・ブーンが「誰だこいつ」という嫌悪をあらわにして、こっちが英語がわからないと思って、汚い言葉をぶつぶつ言っていた場面に遭遇した。そんな状態、空気感、批判、不信感の対象となっている当人が気づかないわけがない。

「絶対結果出してやる」「絶対やってやる」という相当強い思いがあったのだろう。2001年シーズン序盤で時より見せた、それまでのオリックス時代ではほとんど見かけることのなかったセーフティバントもそうした絶対にやってやる、とにかくまず結果を出す、という思いの表れだろう、と勝手に推測している。

とにかくあの時のピオリアの雰囲気は重かった。前職ミズノのアメリカ人野球担当の同僚も1年目にあれだけ活躍するとは思ってなかった。それだからあの活躍は、日本で報じられている以上に、アメリカ人にもセンセーショナルだった。それは、活躍するにつれ、日に日に、彼らが手のひらを返したように僕にイチローのことを語ってくるので余計に感じられた。

イチロー選手の活躍は、当時アメリカに住み、アメリカ人相手に奮闘しているものとして、ほんとうに勇気をもらい、誇らしく思った。

日本人の誇りだと。


2年目のシーズンもメジャーリーグキャンプ周りはマリナーズから始まり、1年目同様に坪田名人と訪問し、直接グラブを届けた。

我々のキャンプ周りが終わりとなり、翌日帰国の途に着くという時に、当時イチロー選手の通訳を務めていたテッドさんから連絡が入った。今年届けたグラブがあまりしっくりこないとのことだった。

すぐに名人に伝え、そして日本に電話。名人はすぐに日本の革屋に国際電話で連絡し、革の手配を依頼。そして、名人が日本に戻ってすぐに、またあらたにグラブを2日で作成、そして中3日でピオリアに戻ってくるということが速攻で決まった。名人は2002年当時、松井選手をはじめグラブ作成を担当していた日本人選手が多数いたこともあり再渡米は不可。

その新たなグラブを中3日でアリゾナに単独にイチロー選手のもとに届ける大役を僕が単独で仰せつかることになった。

アリゾナから日本に帰国してから4日後、坪田名人がイチロー選手本人使用分として作った出来立てほやほやのグラブを、黒のミズノプロの袋に入れて大切に手荷物で持って、まさにとんぼ返りでアリゾナの空港におりたち、ピオリア球場に徒歩で行けるハンプトンインに泊まり、翌日に備えた。

翌日のキャンプ、選手より早く入り、駐車場からクラブハウスの導線、入口付近の、僕が来ているのがわかるような、とはいえ、あんまり近すぎない所に立って待機、、、そして、遠めにご挨拶。

テッドさんにもグラブを持ってきたことを伝える。

練習前に呼ばれることもあるが、この日は練習後にお声がかかり、選手のロッカールームの横のほかの選手がいない場所に通され待機。

イチロー選手登場。挨拶も手短に坪田名人の新たに作ったグラブを手渡す。この時も「おっ 来た!」「どんな感じ」とわくわくした感じが印象的だった。

そして細かい指示はなく、かわりに返ってきたのが「明日さっそく使ってみます」という言葉だった。

そして次の日、テッドさんから「昨日渡したグラブで十分行けそうだ」と連絡をもらった。

自分が作ったわけでなく、ただ運んできただけだけど、大役を果たしたみたいでほっとしたのと、とっても嬉しかった。

あくまで坪田名人のアテンドや間を務める役ではあったけど、スポーツにかかわる、アスリートにかかわる仕事の面白さ、仕事冥利のようなものを、ホテルで一人過ごしていた時にじわじわと感じていた。

思えば、自分が直接担当でなかったから、もっと直接的に選手にサポートしていきたい、という思いそのとき芽ばえ、今の仕事へのモチベーションにもつながっているのかもしれない。

日本だけでなく、メジャーリーグの歴史に残る選手と間近で接し、プロフェッショナリズムだけでなく、普段でテレビでは見れないような野球少年の表情を垣間見れた日々は、間違いなく自分のスポーツキャリアでの宝物だ。

こうした機会に携われたのは本当にラッキーだし、関わらせてくれた方々にはとにかく感謝の一言です。ありがとうございます。

もちろん、メジャーリーグの歴史に名を残し、日本人に誇りをもたらし、たくさんの人々に勇気と感動を与えたイチロー選手、こうした仕事の機会をいただけたイチロー選手に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

そして、ほんとうにお疲れさまでした。


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ノートの1回目ってみんな自己紹介が多いけど、イチロー選手の引退に衝動的に思いをつづりたくなり、書きなぐってみた。

自分にとってのイチロー選手との関わった瞬間は、自分自身にとってはキャリアのハイライトの一つで、それは自分がどんなことやってきたかという自己紹介的な要素もあるし、こんなちょっと変わった1回目なんかがあってもたまにいいのでは。

乱筆乱文ご容赦を

次回、いつ書くか、また衝動的かもしれないけど、よろしくお願いします。



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