価値のない「勝ち」の本当の価値

大学サッカー人生の終わり

2019年12月16日。僕の大学サッカーは終わりを迎えました。
迎えたインカレ準々決勝。明治は本当に強かった。
今まで間近で見てきて、本当に上手いし強いと思っていた筑波のトップの選手たちが、必死で体を張り守って守って、それでも抑えきれない攻撃力。
セカンドチームにすら絡めなかった立場で偉そうに言いたくはないのですが、正直力の差がかなりあったように感じました。

それでもよくよく思い返してみると、「勝てない試合」ではありませんでした。失点は結局1点だけ。筑波も、PKを含めゴールに迫ったシーンはいくつかありました。もし筑波が勝っていたら。もちろん僕たちや筑波のファンの皆さんはお祭り騒ぎでしょう。明治に勝った勢いそのままに優勝、ということも大いにあり得たと思います。僕たちにその未来が訪れてくれたら…ということは、無駄だとわかってはいながら考えてしまうものです。
ただ、「筑波が勝つ」は「明治が負ける」です。あれだけのチームを作り上げた明治が負ける。力の差が歴然としていても負ける。どれだけ技術を磨いても、どれだけ走っても、どれだけチームを一つにしても、その全てで相手に上回っていたとしても、負けるときは負ける。それがサッカーです。実力が素直に結果に結びつく競技とは違い、サッカーにおいてチームの強さというのは勝つ確率が少しだけ高くなるということでしかありません。

そう考えたときに、強いチームと優勝したチームは必ずしも一致しません。結果と実力は長期的に見ればある程度相関するものの、一発勝負においては強ければ勝てるなんて法則はないわけです。サッカーの勝ち負けというものは、非常に分かりにくくて残酷で、これ以上なく面白いエンターテイメントです。

「勝つ」ことの意味とは

多くの強豪大学が、「日本一」を目標に掲げています。関東の大学であれば、関東リーグ、総理大臣杯、インカレ、この3タイトルを死に物狂いで奪い合うことになります。今年はその3つの全てを明治大学が手にしました。今年目標を達成できたのは数ある大学の中で明治だけ、ということになります。ではその他のチームが日々鍛錬してきたことは、価値がないことなのでしょうか。もしそうだとすれば、僕たちが4年間かけて培ってきたものはサッカーの勝ち負けというなんとも不確実なものに依存してしか評価されないということになってしまいます。

僕たちは去年の今ごろその問いにぶつかりました。タイトルを獲ること、勝つことだけが全てなのか。そして編み出したのが「人の心を動かす存在」という蹴球部のビジョンでした。僕たちが本当に価値があると定義したのは、応援してくれるファンの方々、歴史を気付いてきたOBの方々、支えてくれるスタッフの方々、そしてプレーをする自分たちの心を震わせることでした。サッカーの結果には本質的な価値というのは何もないわけです。ただ、早めにサラッと負けちゃうより勝ち続けて上に行くほうが、みんなに感動を与えやすいのは事実です。なので日本一ももちろん目指します、というわけです。

ここで、いやいやちょっと待てよと思う方が多いでしょう。言ってることはわかるけど、結果にこだわるのがアスリートというもんだろ、と。僕ももちろんそう思いました。しかし、結果が本質的な価値だというのは明らかに違うとは思っています。

ここからは、僕の考えるアスリートとサッカーの本質的な魅力について書いていきます。

アスリートとサッカーの本質的な魅力

スポーツはエンターテイメントです。娯楽産業です。生きていくために本当にやらないといけないことは別にあります。というと本気で生活のためにスポーツをしている人に怒られるかもしれませんが、娯楽だということに間違いありません。エンターテイメントにはいろんな種類があります。音楽、お笑い、ダンス、映画、ゲーム…その中にスポーツも位置付けられています。そしてそのそれぞれに、「観る」=消費する楽しみ方と、「する」=創出する楽しみ方があります。多様なエンターテイメント産業の中で、僕たちがスポーツに求めているものは何か。身体を動かして爽快な気持ちになる、スタジアムで新しい仲間と出会う。どれも素晴らしい価値です。
ただ、それは僕たちが本気でやってきたサッカー、つまりお遊びではなく所謂「アスリート」が行うスポーツの本質的な価値かというとそうは思えないわけです。アスリートがやるスポーツに対して人々が求めているもの。それは「感動」です。アスリート側も観る側も、友達とべらべら話していて「あー楽しいなー」と思ったり、ゲームをしていて「面白いなー」と思ったり、というのとは全く違う、心が揺さぶられる体験を求めています。「アスリートのスポーツ」とは、それを売って成り立っている産業になります。

そしてここからが重要なのですが、僕が考えるに、人々がスポーツで心を動かされる要素には、2つの軸があります。

1つ目の軸は、「高いパフォーマンスを発揮すること」です。
「観る」側の視点から考えると、自分には到底できないような卓越した技術や、とてつもない身体能力の高さや、とんでもない発想・判断力を目にして素直に「すげえ」と思う気持ちです。YouTubeでスーパーゴール集を見ているときに感じる価値です。これは他のエンタメにも通じる価値であり、大迫力の映像を見たり、ハイクオリティの演奏を聞いたり、一糸乱れぬダンスを見たりしたときの感動と同じ種類のものです。
そしてこれは「する」側にとっても意味のあることで、今までにできなかったレベルのパフォーマンスが鍛錬を重ねてできるようになるこの瞬間は、得も言われぬ快感があるわけです。

多くの人がこの軸については気づいているような気がします。この試合はなぜ面白いのか、それはレベルが高いから面白いんだ、と。でももし、レベルが高ければ高いほど面白いのだとしたら、なぜサッカーファンはJリーグを見るのでしょうか。プレミアリーグとラ・リーガと、CLとW杯だけ見られればいいはずです。みなさんの周りにもいませんか。「Jリーグとかレベル低すぎて見てられない、プレミアとかCLにしか興味ない」と言うエセサッカーファン。僕から見ると彼らはサッカーの、スポーツの魅力の半分も分かっていません。なぜなら、次に話す2つ目の軸こそが最強かつ最大の価値だと思うからです。そしてそれは驚くほどの矛盾をはらんでいます。

2つ目の軸は「本気で勝利に、結果にこだわる」ことです。そして、「本気で勝利に、結果にこだわれる」ことこそがアスリートがアスリートたる所以だと思っています。これが、大きな大きな感動を生むのに絶対に欠かせない要素だと思っています。
さっきと言ってること全然違うじゃないかと思うはずです。先述したように、サッカーの勝ち負けには何の意味もありません。実力や今まで積み上げてきた過程とは関係があるようで関係がないからです。ここで僕が言いたいのは、「本気で結果にこだわる者同士が全てをかけて激突し、残酷にも勝敗という形で優劣を決められてしまう」というこの構図こそがスポーツが感動の渦を巻き起こす最大の要素だということです。

かくいう僕も、以前は1つ目の軸の部分に気を取られていたような気がします。前回執筆したnoteでも、「高校選手権はあんなに観客が入るのに、インカレはなんで人気がないんだ。レベルはこっちの方が高いのに。」という趣旨のことを書いたりしています。
その中で、僕が「サッカーの面白さはレベルの高さじゃない」と感じた出来事について話します。

サッカーの面白さはレベルの高さじゃない

2018年末の「つくばカップ」という大会でのことです。この大会は、筑波大学蹴球部の2~5軍と、筑波大学サッカー同好会、医学サッカー部の計6チームで争うトーナメントの大会です。蹴球部の2軍=B1チーム以下のチームは10月ごろで公式戦が終わってしまうため、オフシーズンに入ります。その長いオフシーズンの中で真剣勝負の機会を作ろうというのがこの大会の趣旨です。僕はこの当時の4軍=B2チームに配属されました。チームが指導してからつくばカップまでの1か月強、「つくばカップ優勝」を目指し準備を進めました。コーチ陣の素晴らしい指導もあって若い1,2年生を中心に選手たちは本当に成長しました。そして迎えたつくばカップでは、B3チーム(5軍)、医学サッカー部を倒し決勝に駒を進めました。決勝の相手はB1チームです。2つカテゴリの違う圧倒的格上との一戦でしたが、試合はPK戦にもつれ込み、なんと勝利したのは僕たちB2チームでした。あのときの感動はすさまじいものでした。僕は途中出場でしたが、B2チームは攻め込まれながら1点を先制し、後半に失点を許すも体を張って猛攻をしのぎ、最後まで1点をもぎ取る姿勢を失わなかった。そして最後のPKが決まった瞬間、ベンチのメンバーも、スタンドで応援していた部員もみんながグラウンドに飛び出して僕たちの方に押し寄せてくる。大勢にもみくちゃにされながら僕たちは喜びを分かち合いました。正直に言って、内輪の小さな、優勝したからって誰に自慢できるわけでもないしょうもない大会です。それでも僕にとってはサッカー人生の中で最高の瞬間の一つでした。そしてそれは観ていた人にも伝わっていました。試合後、たくさんの人に「感動した」「B2の組織された守備はほんとうにすごかった」「めちゃくちゃ面白かった」というような言葉をもらいました。

僕たちはトップチームの選手やプロの選手に比べると、とてつもなく下手です。だけどこの試合に関しては、関東大学リーグの平凡な1試合よりも明らかに大きな感動を呼んだと我ながら思うし、そしてその原因はただ僕たちが大番狂わせを起こして勝ったという結果にあるものではないと思います。なぜなら僕たちがもしPKで負けていたとしても、きっとその戦いぶりに拍手が送られただろうと思うからです。関東リーグの選手や日本代表の選手だって、つまらない試合をよくするし、僕たちや高校生、小学生だって鳥肌の立つような感動を生み出すことができます。

サッカーは、レベルが高ければ高いほど面白いです。ただし、それは「本気」の量が等しい場合に限ります。選手は、高いパフォーマンスを発揮すればいいだけの「パフォーマー」ではありません。もしそうなってしまったら、スポーツというのは他のエンタメにいとも簡単に代替される存在だということになってしまいます。スポーツをする人、観る人、支える人、その全てを突き動かす感動の原動力とは何か。

サッカー特有の緊張と解放

スポーツを演じるプレーヤーはただのパフォーマーではなく、「本気で勝つ、何があっても勝つ、そのためならどんな努力でも貪欲にする」という魂をもった「アスリート」で、そこが本当に激しくぶつかり合い、どちらが勝つか本当にわからない展開が続いて一つの結果が出る。点が入れば、勝利すれば喜びを爆発させ、もう片方は激しく落胆するでしょう。重要なのはその緊張とそこからの解放です。映画も音楽もダンスも、コンテンツの内容は最初に決まっています。コンテンツの内容が決まっていないエンタメなんて、スポーツとラップバトルくらいです。何が起こるか分からない、だからこそスポーツに関わる人は他のどこでも得られない緊張感を楽しむことができるし、それを一気に解放する、あの最高の瞬間を消費することができます。

そしてサッカーというのは、他のどんなスポーツよりも緊張の割合が大きいスポーツだと言えるでしょう。サッカーは90分もあるくせに全然点が入らない。でもだからこそ、得点したときの興奮や勝利のホイッスルを聞いた時の歓喜は、他のものでは決して再現できないほど強烈なものになるのです。点が入れば入るほど面白いなんて嘘です。気にすべきはゴール前に迫る回数です。なぜならそこにこそ最高の緊張と解放が詰まっているからです。

そしてそれらすべてを下支えしているものこそ、「アスリートたちの本気のプレー」です。アスリートの世界は本当にシビアです。試合の度に優劣をつけられ評価され批判され、それでも自分と向き合って貪欲に成長を追い求める。すべては勝つために。これは誰にでもできることではありません。スポーツを観る人たちは、自分たちがこの世界で生きられない代わりに、本気でプレーするアスリートを本気で応援することによってアスリートたちの戦いを疑似体験することができます。ともに準備しともに緊張しともに喜びともに泣く。アスリートの本気が観客の本気に火をつけます。

そして、その本気の戦いを生み出すものこそが「結果への執着」だと僕は思います。結果には何の価値もなく、重要なのはそこに至る過程で得られるものです。でも想像してみてください、結果に固執しなくなってしまったアスリートは、観ている人すべての本気を引き出し巻き込んでいくような本気のプレーをできるでしょうか。

結果だけに執着することは非常に危険です。本当は価値のないものなのですから。望んだ結果を手に入れても入れなくても、そこに幸せは待っていません。

アスリートたちに求められているのは、
「結果に価値はない。そう分かったうえで、それでも結果にこだわれるか」
これです。
これができれば、アスリートは他に類を見ないタイプのエンターテイナーとして人々を楽しませることができます。

これはプロスポーツに限らず、すべての競技者にとって同じことが言えるはずです。もちろん、大学サッカーにも。

ここからは、大学サッカー界が目指していく道について話していきます。

大学サッカー界が進むべき道

まず、「高校選手権よりレベルは高いはずなのになんで人気がないんだ」という考え方はそもそも見当はずれです。サッカーの面白さはレベルの高さだけでは到底説明しきれません。

高校選手権の面白さの理由は大きく二つポイントがあると思っています。それは『懐古性』と『地域性』。高校生というのはほとんどの人が通ってきた道です。自分たちが青春を費やしたあの時間を全てサッカーに捧げ、この舞台に立つために努力し続けてきた選手たちを見ることになるわけです。そしてそれぞれが自分の地域を代表してピッチに立っている。その非常に胸アツな構図を各メディアが非常に巧妙に視聴者に提供しています。選手の本気がしっかり伝わり、応援する人に火をつけられている。だから面白い。

大学サッカーも、選手の本気度でいうと絶対に負けていません。それは僕が実際に所属して自信を持って言えます。ただ問題は、その熱が広がりを見せず、付近でフワフワと浮遊しているだけだということです。大学サッカー界にも、人数は少ないですがコアなファンがいます。その人たちは、その強烈な好奇心で近くに寄ってきて浮いている熱をしっかりキャッチした人たちです。ただ、その状況でこれ以上の盛り上がりが起きるはずがない。

大学サッカー界がもっと注目される存在になっていくためには、既に存在する本気の力をもっと多くの人に伝わる構図を作っていかなくてはなりません。観に行く理由、応援する理由を作っていく。こいつらに自分の本気を重ねたい、そう思ってもらえるように。
重要なのは、「どう見せるか」と「どうやって届けるか」です。

今、いろんな大学が広報に力を入れたり、大学サッカーを盛り上げようと行動していると思います。面白い動画を撮ってSNSに投稿したり、選手たちの趣味など細かいパーソナリティがわかるようなマッチデープログラムを作ったり、すごく素敵な企画が多くて感銘を受けます。

でも、それらに興味を持ってくれる人って元々大学サッカーが好きな人なんですよね。すでに応援してくれている人にとってはすごく魅力的なコンテンツになっていますが、新規層を取り込むためにはほとんど効果を発揮しません。

新規層を取り込んでいくには、「見に行く/応援する理由」をこしらえて見に来てもらうことでタッチポイントを作り、選手たちの本気のプレーをより効果的に見て感じてわかるような工夫を凝らして観客の心に火をつけ、その本気の火を思いっきり発散してもらえるような環境づくりをすること。

「地域の代表」という形にすることで応援する理由を作る。ロッカールームでの涙を撮影することで本気度を伝える。最高のスタジアムに満員の観客。高校選手権の仕組みは実にしっかりしています。

これができれば、選手の名前なんて知らなくても、ルールなんて知らなくても、大学サッカーを好きになってもらえると僕は思います。
誰一人知らなくてもルールも大してわからなくても、ラグビー観て感動しましたから。

だから、選手の名前をおぼえてもらったり奇抜な企画でバズりを狙ってみたり、そんなのは正直二の次です。今は、せっかく来てくれた人にも本気が伝わるような仕組みすらできていませんから。

「とにかく見に来てもらわないと始まらない」という発想の意図もすごく分かります。「ファンサービスが大事だ」という意味も分かります。
ですが、プレゼントをもらったり、美味しいものを食べたり、好きなキャラクターを見れたり、選手たちがアイドルかの如く接してくれたり。もちろんファンは喜ぶでしょうが、スポーツはそんなところで勝負していると、いとも簡単に他のエンタメに敗北してしまいます。様々な趣向を凝らした企画はタッチポイントとして必要です。しかしそれらは全てスポーツ特有の価値である「本気による緊張と解放」を生かすものである必要があると僕は考えます。最終的に選手たちに想いを乗せてくれるようにならなければ、スポーツを消費しているとは到底言えないような気がしています。

本気を伝える仕組みの構築方法は多様だと思いますし、各チームで異なるべきだと思います。誰をターゲットにするのかも違います。本気でもっと注目される存在になっていきたいのなら、そこを真剣に考えていく必要があるような気がしています。

大学サッカーの面白さをどこに設定するか。
それをどういう媒体でどのように伝えるか。

これをもう一度考え直していく必要があります。これはもしかしたら、大学サッカー全体で考えるべきことではなくて、それぞれのチームがそれぞれを生かすように方法を考えていくべきなのかもしれません。その集積によって大学サッカー界の方向性が定まっていくものなのかも。


ということに気づいたときには、もうこんな時期になっていました。
僕はもう卒業してしまうので、何年後かに飛び込むであろうJリーグの世界で、実行に移していきたいと思います。
これから大学サッカー界を変えていきたいと思っている後輩たちにとって少しでも参考になればと思って書きました。

僕の今後の夢については、また書きます。


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