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世界の見え方が変わる物理学|小林晋平×江本伸悟|松葉舎の講義録|2024年10月13日

2024年10月13日、青山ブックセンター本店の大教室にて、宇宙物理学者の小林晋平・東京学芸大学准教授をゲストにお迎えした講座「世界の見え方が変わる物理学」を開催いたしました。こちらはその告知文、当日のイントロダクション、レクチャー内容の一部となります。


告知文

人は一生のうちに、なんど物理学と出会うことができるのだろうか。

幼いころは誰しもが見わたすかぎりの不思議に包まれて、「なんで」「どうして」「どうやって」とさかんに口にしながら世界とたわむれていた。一匹の虫が、一滴の水が、一つのおもちゃが秘めた不思議に魅せられて、なにかしら「もの」を考えはじめたとき、その心はもう物理学にふれている。

学校に入ると、理科の教科書のなかで、私たちはふたたび物理学と出会う。目に見える現象の奥にひそんだ深遠な法則。宇宙のかなたや原子の内奥に広がる人間的感覚をこえた世界。それらを、数学の言葉で想像していくための作法。そこには、もの言わぬものとの対話を続けてきた先人たちの、大いなる知恵が煎じ詰められている。

ただ、大人になってからも物理を学ぼうという人は、それほど多くはない。学校で「正しく解くべき問題」としてそれを与えられるからか。数式の難しさにさえぎられて、そのさきに広がる物理の風景にまで目が届きにくいためか。

理由は人によりけりだが、たいていの人は、人生のいつかどこかで物理学とはぐれてしまう。

だが、人と物理学との関係は、一度きりではない。人はなんど物理学とはぐれても、またどこかで巡りあうことができる。そして、物理学がものの見方を探求し、世界へのまなざしを深めるための学問とするならば、物理学と出会いなおすことは、この世界と出会いなおすことでもある。

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この度は、物理学との新たな出会いの機会として、宇宙物理学者の小林晋平・東京学芸大学准教授と、独立研究者の江本伸悟・松葉舎主宰によるトークイベントを開催します。

小林さんは、大学で宇宙物理学の研究をしながらも、NHK Eテレ『思考ガチャ!』の企画・司会に携わり、また音楽の響きわたるクラブで物理学の世界を体感するイベント「夜学/Naked Singularities」をオーガナイズするなど、人の暮らしと物理学のあいだに新たな橋をかける「実験」を続けてきました。

江本さんは、渦の物理を研究して博士号を取得したのち、新しい学問の場として私塾・松葉舎(しょうようしゃ)を立ちあげ、ダンス、野口体操、ディドロ、現代音楽、能楽、芸術、ファッションなど、さまざまな分野からつどった塾生たちとともに探求を続けてきました。

すでに物理学を好きな方はもちろん、いつかどこかで物理学とはぐれ、そのことを心残りに思っていた人が、ふたたび物理学と、そして世界と出会いなおせる機会となれば幸いです。


登壇者紹介

本日は講座「世界の見え方が変わる物理学」にお越しくださいまして誠にありがとうございます。本日の会を主催しております江本伸悟と申します。

簡単に自己紹介いたしますと、もともとは大学で渦の物理学を研究していたのですが、博士号取得後は在野に松葉舎という私塾を立ちあげ、哲学や仏教、ダンスやファッションなどさまざまの分野から集ってくれた塾生たちとともに、広い意味での研究活動を続けております。本日は短い時間ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします。

また本日は、「世界の見え方が変わる物理学」を語るにあたって、大学で宇宙物理学者としての研究をつづけながらも、ときにNHK科学番組の企画、司会に携わり、ときに音楽の響きわたるクラブで物理学イベントを立ちあげるなど、人の暮らしと物理学のあいだに新しい橋を架けつづけてきた、小林晋平先生にお越しいただきました。どうぞみなさま、拍手でお迎えください。

小林先生、今日はどうぞよろしくお願いいたします。

宇宙の見え方が変わる物理学入門

今回の講座タイトルである「世界の見え方が変わる物理学」は、小林晋平さんの『宇宙の見え方が変わる物理学入門』という著作タイトルが元ネタとなっております。

この本のなかではシャボン玉からブラックホールまで、さまざまな物理学上のトピックが取りあげられているのですが、それらについて、ただ物理学的なメカニズムを解説するというのではなく、むしろそれらの解説を通じて「物理学者のものの見方」を伝えることに眼目がおかれています。

物理学というのはその名のとおり「もののことわり」を探求する学問なわけですが、それは同時に、どのようにものを見るのか、世界をまなざすのか、そのような「ものの見方」を探求する学問でもある。

今日は、そんな「ものの見方を探求する営み」としての物理学についてお話していきたいと思います。

物理学と出会いなおす

それと、今日はもう一つの裏テーマを設けておりまして、それは「物理学と出会いなおす」というものです。

物理学が取り扱っている対象に興味が持てなかった。
計算が難しくて、その先にある物理の風景にまで手が届かなかった。
あるいは物理学よりももっと夢中になれる何かに出会ったから。

理由は人によりけりだと思うのですが、大人になってからも物理学と付きあい続けている方というのは、おそらく少数派だろうと思います。人はしばしば、人生を生きていく過程のどこかで、物理学とはぐれてしまう。

けれど幸いなことに、人と物理学の関係というのは、一度きりではありません。

数学は直ぐにそれを理解できなくても、どこにも逃げていかない。いつか私の理解がおいつくまで、ずっと待っててくれる。

江本伸悟ホームページ-家庭教師

これはぼくがむかし大人向けの家庭教師をしていたとき生徒のひとりがふと呟いた一言でいまでも印象に残っているのですが、同じことは物理学にもいえるように思っています。

それというのも、日々めまぐるしく変化していく社会、あるいは日進月歩の発展をとげていく他の学問領域と比べたとき、数学や物理学という分野の発展していく速度には比較的穏やかなところがあるからです。

そのことを象徴する例として、この前小林さんの研究室で打ち合わせをしたときにうかがったエピソードをここで紹介させてもらいたいのですが、いまはこうして大学教授職につかれている小林さんも、かつて海外に留学したときには、2年間ほとんど成果が出せなくて非常に焦っていた時期があるというのですね。このまま成果が得られなければ、研究者としてポストを得ることができないかもしれない。じっさい研究者にとって2年間の停滞期間というのは死活問題となりえます。

けれど、そうして落ち込んで日本に帰ってくると、なんのことはない、その2年間、じつは小林さんだけではなく、その分野全体においてさしたる進捗が得られていなかった。小林さんだけではなく、その分野全体が壁に突きあたって歩みを止めていた、時間が止まっていたというエピソードです。

このエピソードには、物理学という学問がどのような時間スケールのなかで営まれているのかがよく表れているように思います。

物理学はむずかしい。
すぐには理解できないし、研究もすすまない。

社会を滔々と流れゆく時間に比べれば、物理学の内部を流れている時間は、ほとんど凍りついて止まっているかのようです。そんなものに付き合っていては、自分の人生までがストップしてしまう。そうして人は物理学との別れを告げて、別々の時間を生きはじめる。

しかし、物理学の時間がそうして社会から隔絶された場所でおだやかに流れて居るからこそ、人はまた縁さえあれば、物理学とふたたび出会うことができる。長い時間をかけて発見され、理解されていく学問というのは、すこしの間そこから離れたとしても、すぐにはその姿を変えてしまわない。それを学ぶことの価値も、そう簡単には目減りしていきません。

これが、たとえば昨今長足の進歩をとげている人工知能の分野などであれば、そうはいかないかもしれません。毎年のように人工知能は様変わりを続け、継続的に勉強を続けないかぎりはキャッチアップすることすらままならない。

「物理学は直ぐにそれを理解できなくても、どこにも逃げていかない。いつか私の理解がおいつくまで、ずっと待っててくれる」。それが物理学のよいところだと思います。

付言するとぼくは、多くの人はこれまでの人生の中ですでに、なんども物理学と出会っては別れ、別れては出会うということを繰り返しているのではないかと思っています。

子どものころ、ぼくたちは何かにつけて「なんで」「どうして」という言葉を口にしていました。

たとえば、この前子どもと歩いていると、室外機の横をとおりすがっては「なんで水が出てきてるんだろう」と聞かれ、曇り空をみあげては「雨はどうやってできてるんだろう」と聞かれ、ぼくは「室外機から水が出てくることと雲の中で雨ができることは似てるんだよ。こんど家で小さな雨をつくってみよう」などと答えていたのですが、こうして子どもが目の前の現象を不思議におもい、「なんで」という言葉をおもわずこぼすとき、その心はすでに物理学に触れています。

けれど、歳を重ねて世界と慣れ親しんでいくうちに、そうして世界に感じていた不思議はつゆと消えていき、その心は物理学から離れていくことになる。そうして距離をおいたものの、今度は学校の理科の授業をつうじて物理学と再会をはたし、自分が素朴に生きていたのでは出会わないような形でもののことわりに触れていくことになる。そうかと思うと、楽しかったはずの理科の授業もいつしか受験科目の一つと成り果てて、ふたたび物理学とはぐれてしまう。

ぼくたちはこのようにして、物理学とのいくどにもわたる出会いと別れを繰り返しながら、いまに至っている。

人と物理学の関係は一度きりではない。出会ってははぐれ、はぐれては出会いなおす。その繰りかえしの中で、人は物理学との関係を徐々に深めていくものなのだと思います。

本日の講座が、みなさまにとっての3回目、4回目、あるいはN+1 回目の物理学との出会いになることを祈っています。

境界線を取りはらう

ここからは本題のレクチャー、物理学的なものの見方について話を進めていきたいと思います。

物理学的なものの見方といったとき、ぼくはその特徴のひとつに、この世界に引かれた境界線を取りはらっていくものの見方、言いかえれば、日頃ぼくたちの目には分かれて見えているものたちの底にある、見えない結びつきに目を向ける、というものの見方があるように思います。

ぼくがそのようなものの見方をはじめて意識するようになったのは、幼少期に海で遊んでいたときのことでした。

本州の西端、三方を海に囲まれた下関という土地に生まれ育ったこともあって、子どものころは父親の車にのせられてさまざまな海に出かけていたのですが、垢田の海岸では岩場にひそむウニやイソギンチャクと戯れたり、白浜のひろがる綾羅木のなぎさでは、砂山をつくっては打ちよせる波にそれを崩されたり、吉見の河口にならぶテトラポッドの上からは、釣り竿を振ってキスやカレイを釣りあげたり、父親の車に揺られた先で出会う海にはそれぞれに豊かな表情があって、どれひとつ同じ海ではありませんでした。

下関というひとつの大地に、無数の海がくっついている。
それが幼いころのぼくの目に映りこんでいた世界の姿でした。

けれど、小学校高学年になって自転車に乗りはじめると、にわかに世界がその形を変えはじめます。綾羅木の海から海岸線沿いに自転車のペダルを漕ぎ、小高い丘を越えると、そこに垢田の海が広がっていたのですね。それまでのぼくにとって、垢田の海と綾羅木の海は、父親の車のドアを開けた先にそれぞればらばらに存在するものでした。けれどそれら二つの海が、自転車を漕ぎながら横目に通り過ぎた海岸線を通じて、一つにつながり合っている。

そこから、垢田と綾羅木の海だけではなく、吉見の海や、日本海と瀬戸内海、あるいは太平洋、大西洋、インド洋、この世界に存在するすべての海がつながり合ってひとつの大海を成していると実感するまでに、時間は掛かりませんでした。

目に見える無数の海が、見えないところで互いに結びあって、一つの大海を成している。同じように、日頃はぼくたちの目に分かれて見えているさまざまな現象も、見えないところでは深く結び合っているのではないだろうか。

すこし言葉だけを羅列していきますが、17世紀の物理学者であるニュートンは、重力の法則を発見することで地上の世界と天上の世界を結びつけ、19世紀の物理学者であるマクスウェルは、電磁場の法則を発見することで電気と磁気と光の世界を結びつけ、20世紀の物理学者アインシュタインは相対性理論を構築することで、時間と空間、あるいは質量とエネルギーの結びつきを発見しました。

物理学は、人の直観がこの世界に引いていた境界線を取りはらい、そのことによって世界を一つに縫い合わせていく。

それはある意味、それまで整然と分けられていた世界が、分けられなくなっていくこと、分からなくなっていくことだとも言えます。そのようにして、いったん世界を分からなくなって見ることが、物理学的な世界の見方だと思っています。

自然を描く筆としての数学

もう一つ、物理学的なものの見方の特徴として、数学の言葉を通じて世界を記述する、そのことを通じて世界をまなざす、というものの見方があるように思います。

ぼくは「数学の言葉で世界を記述する」という代わりに、「数学という筆で世界を描く」と表現することが多いのですが、ここにはぼくがはじめて風景画を描いたときの経験が関わっています。

小学校の夏休みの宿題だったと思うんですが、ぼくは近所の公園のベンチに座って、目の前に広がる風景を画用紙のうえに写しとろうとしていました。
絵画のイロハを知らなかったぼくは、そのとき下書きのために鉛筆を手にとったのですが、その途端、それまで気にも留めていなかった無数の街路樹の姿が、さらには、その一本一本についている無数の葉っぱの輪郭線が目に飛びこんできて驚かされました。

その無尽蔵の輪郭線を写しとる作業がどのような形で終わりを迎えたのかはもう記憶にありませんが、そのときぼくは、日ごろの自分はこの世界に存在している輪郭線のほとんどを見落としているという事実に目を見開かされました。いま思えばそれは、人は描くという行為を通じて普段の自分に見えていないものを見ることができると気づいた瞬間だったようにも思います。

人は、見たものをただ描いているわけではない。
反対に、描くことを通じて世界を見てもいる。

さらに驚いたのは、夏休みが終わって、教室の壁に貼りだされていた友人の絵を見たときのことです。

見ると、ぼくのように鉛筆で葉っぱの輪郭線を描くのではなく、毛筆で緑や黄緑の絵の具をぽんぽんと重ねるようにして木々を描きだしている。はじめは「こんな手抜き、ズルいな」と思いながらその絵を眺めていたのですが、しだいに、これはこれでリアルな描写だと感じはじめているぼくがそこにいました。

そのどちらの描き方がこの世界の実相に近いというわけではない。ただ、鉛筆を手にしたぼくの目には、世界が線の集まりとなって飛びこんできた。毛筆を手にした友人の目には、世界が色の重なりとなって飛びこんできた。どのような筆を手に取るかによって世界の描き方は変わる。それは、世界の見え方が変わることでもあると、このとき実感したのでした。

だとすれば、数学の言葉で世界を記述する物理学者、もとい数学という筆で世界を描きだす物理学者の目には、人とは異なる世界が映っているのではないか。その風景をのぞいてみたいと思ったのが、ぼくが物理学の世界に入門した一つのきっかけとなっています。

そこで今日は、数学を通じて世界のみえない繋がりを描きだすという物理学的なものの見方をみなさまにも体験していただこうと思っています。

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この後イベントは、わたくし江本による物理学体験ワークショップ、小林晋平さんからのレクチャー、その後の対談、質疑応答へと続いていきました。


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