脳死
今読んでいる東野圭吾の小説、人魚の眠る家。白夜行を読み終えたばかりだったので、白夜行ほどのひきがなく、面白くないかもと思いながら読んでいたが途中から一気に東野ワールドに引きずり込まれた。とある家族の娘が祖父母とともに遊びに行ったプールで溺れてしまうのである。両親が連絡を受けた時には既に意識がなく、病院で意思から話を聞くと、脳死に近い状態であるという。植物状態でも残酷ではあるが、植物状態よりも更にひどい状況であるという。医師からは脳死していたとしたら、数日で体の機能が全て停止すると宣告され、その上で臓器提供の話もされる。あまりの展開の速さに、なんて医者だと読みながら思ってしまったが、それだけ考える時間がないということを後になって知ることになる。日本では、脳死判定は基本的には行わず、臓器提供を承諾した場合のみ脳死判定が行われ、脳死となった時点で臓器提供となるようである。つまり、臓器提供の判断が遅れて脳死となってしまった場合には、後に臓器提供を希望しても提供できない状況になるという。一方で、海外では脳死となった場合には、心臓が動いていたとしても死とみなされ延命措置は行われないという。有事の際には、このようなことを考えることができないので、今のうちに考えておきたい問題である。当事者として考えるならば、この世から家族がいなくなってしまうよりも、臓器だけでも誰かの一部として生きてくれたら嬉しいと私は思う。同様に、私の体についても、この世から消えてしまうよりは、誰かの体の中で細胞レベルで生かしてもらいたいと思う。この話については、週末にどこかで家族と話をしたいと思う。もし自分が脳死になった場合には、臓器提供をしてほしいという話である。そういえば、運転免許証だったか、健康保険証の裏に臓器提供の意思を反映する箇所があった。そこに臓器提供OKとサインをしておくことを家族に伝えればそれでいいだろう。今回の東野圭吾の物語を読んで、考えが変わったことがもう一つある。それは、サーフィンについてである。娘にはスイミングでクロールをクリアしたら、ボディボードを教えようと思っていたのだが、やはり海で溺れてしまうリスクを考えると、サーフィンまでは教えられない。私は何度も危険な目にあっているので、同じ経験を娘にはしてほしくないし、万が一のあることをさせたくはない。娘との共通の趣味については新たなものを探そう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?