読書
「読書」
文章を書くと言う行為には、ときに恐怖がつきまとうことがある。自分にはこの文章を最後まで書き切ることが出来るのだろうか?そこにはあらゆる種類の困難がある。才能、あるいは体力の限界、頭痛や歯痛だって集中力の妨げになる。それにボーッとしているうちに車に撥ねられてしまうことだって考えられる。僕は今書いている文章を書き切るためならあらゆる犠牲を払ってもいいとさえ思う。たとえそれが誰の目にも留まらぬような、とるに足らぬ文章だったとしてもだ。良くも悪くも僕にはその文章しか書けなかったし、また書かざるを得なかったのだ。あらゆる言い訳を並べつつ、それでも僕はこの文章を書き続けている。誰かの目に、心の端にでも触れることを信じて、また何よりも自分自身のために。
僕が目を覚ましたのは昼の12時を少し過ぎたあたりだった。枕元には昨日の夜飲んでいたウイスキーがコップの底に1センチばかり残っていた。少し迷ってから僕はそれを流しに捨てた。もう昼になってしまったとはいえ、貴重な1日を無駄にしたくはなかった。妻は朝から子供を連れて遊びに行っていた。車庫から車が無くなっていた事でそれに思い当たった。そういえば子供の通う幼稚園の母親仲間とその子供たちで、車を使って少し遠出をするという話を前から聞いていたのだったが、すっかり忘れていた。昼からどのように過ごそうか考えてみたがさっぱり思いつかなかった。図書館から借りてきた本を読んで過ごそうかとも思ったが、やめた。こんな天気のいい日に部屋にこもって読書をするというのは、なんだかそぐわない気がしたからだ。本を読むには本を読むためのそれなりのシチュエーションというものがある。たとえば雨の降る日の情事のあと、相手を帰らせたあとのあのアンニュイな時間などにだ。なんとなく手持ち無沙汰な気分になり、ふと開いた本のページに夢中になり、気がついたら夜だった、というのが望ましい。そこからウイスキーのグラスを傾けつつ、さらに読書に耽るもよし、テレビで昔観た映画を見返しつつ、気分転換にビールというのも悪くない。何にしても、本を読むには本を読むなりの雰囲気というものが必要なのだ。僕はそんな風に考えている。
何をするべきか色々と考えあぐねているうちに、電話が鳴った。彼女からだった。
「今から会えないかしら?」
彼女は言った。
「今から?」
と僕は言ってから、少し考えた。妻が子供たちを連れて帰ってくるのはおそらく夕方の5時ごろだろう。今が昼の12時過ぎだから5時間は時間がある。
「構わないよ。」
と僕は言った。それからタクシーを拾って彼女の待つホテルに向かった。
彼女と知り合ったのは職場でのことだった。彼女は当時新入社員であり、僕が先輩として色々と面倒を見ているうちに親しくなったのだった。彼女は頭が良く機転がきき、話も面白かった。たまにいささか想像力が足りないのではないかと言うぐらい偏った考え方に固執することがあったが、あとはおおむね親切であった。ある日彼女が仕事の上でミスをして僕が上司としてそれをカヴァーした。大したミスでは無かったし、気がついた彼女自身も素早く対応した。それでトラブルもなく物事はスムーズに進んだ。彼女の対応の素早さでむしろ彼女の評価が高くなったぐらいだった。その場では僕も立場上、問題点は指摘して、厳しいことを言いもしたが、あとで落ち着いてから2人でそのことを軽い冗談にするぐらいにまでになっていた。しかし、仕事が終わってから彼女は深刻な顔で僕に話しかけてきた。
「今日のことは本当に申し訳ありませんでした。」
僕は彼女の切羽詰まった様子に驚きながらも、
「構わないよ、もう済んだことだし、今後気をつければいいことだから。」
と言った。それでも彼女はどこか浮かない顔をしていた。
「どうしたの?そんなに落ち込むほどのことでもないと思うけど。」
と、僕は聞いてみた。するとやはり切羽詰まった様子で、
「私、今後仕事を続けていく自信が無いんです。」
そう彼女は言った。
「自信が無い?」
僕はまた驚いて言った。普段の彼女は溌剌としていて、どちらかというと自信に満ちているように見えたからだ。
「少し考え過ぎじゃないかな。ミスは誰にでもあるし、君はよくやっている方だと思うけどな。」
それでも彼女は何か言いたそうにしていたので、思い切ってその日彼女を食事に誘ってみることにした。もちろん上司として仕事上の話を聞きたかっただけだし、この際彼女の本音を聞いて円滑にコミュニケーションを図りたいと思ったからだった。それでもやはり妻にはその日は会社の上司に誘われたということにした。いくら会社の部下とはいえ、女性と二人で食事に行くというのでは妻に余計な心配をかけると思ったからだ。その食事の席で、彼女は自分の置かれている現状について少しずつ話をした。親が入院中であり、あまり容体が良くないこと、同期に不当に妬まれて嫌がらせを受けていること、自分の思い通りに働こうと思っても、さまざまなトラブルや、自分の能力の限界もあり上手くいかないと感じることがあるということ。彼女は最初、今にも泣き出してしまうのではないかという雰囲気で、言葉を詰まらせながら話をした。しかし、食事が進むにつれ、酒が入ったこともあり、少しずつ本来の彼女の明るさを取り戻して行った。それで僕は少しホッとすることが出来た。ところがいざ食事を終えて帰ろうというときになって、彼女はまだ帰りたく無いと言った。
「もう一軒だけ、お酒の飲めるところに行きましょうよ。」
僕は妻や子供たちのことが気になったが、やはり彼女に付き合う事にした。一杯か二杯で切り上げて帰ることを条件に、近くの静かなバーに移ってカクテルを飲んだ。彼女はかなり濃いジン・トニックを飲んでいた。僕が一杯飲む間に、彼女は三杯のカクテルを飲み干していた。
「大丈夫?そんなに飲んで。」
僕は心配になって聞いてみた。
「ええ。明日は休みだし、平気です。それに私、お酒は強い方なんですよ。」
バーを出ると、彼女は僕の手を握って、ホテルに行こうと言った。僕は彼女の目を見た。特に泥酔しているという様子は無かった。アルコールのせいで頬に赤みが差していたが、その目は真っ直ぐに僕を見据えていた。僕はなんだかわけがわからなくなった。職場で見る彼女と、今こうして僕の手を握ってホテルへ行こうと言う彼女は同じ人間でありながらまるで違う人格を宿しているようであった。あるいはそれはどちらも本来の彼女そのものなのかも知れなかった。光を当てる角度によってまるで別の物体に見えるオブジェのように、1人の人間の中にまるで別の側面があるようだった。
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