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⑧Jesus: A Gospel of Love (2024年2月25日 ミュージックギャザリングと自我の抵抗)
(*写真はメキシコにある聖フランンチェスコの教会)
最近このコミュニティー界隈で何やら話題になっているミュージシャンがいる。彼はコースを実践していてコースを題材にした歌を作って歌ったりしているらしい。
彼はデイヴィッドのことがとても好きらしく、会ってコミュニケーションしたいらしいのだけど、なぜか今まで一度もデイヴィッドに会ったことがないらしいのだ。(彼はスペイン語と英語が話せて今はメキシコにいるのでそれは意外だった)
この数日間彼とやりとりをしていて、昨夜はデイヴィッドと仲間数人が彼のコンサートに行ったり色々と物事が展開して、今日は彼を招いてコミュニティーでコンサートギャザリングをすることになったのだ。
このようになった理由はデイヴィッドが個人的に彼とコミュニケーションを取るだけでなくてコミュニティーのみんなと共に交流するガイダンスがあったかららしい。
そして、当日である今朝のエクスプレッションセッションでは闇が上がっている兄弟が多かった。
私も常に闇は上がっているものの、自分の思考とは関係ないところで期せずして恩寵に触れて涙が溢れた。
私はミュージシャンの彼のことも知らないし特別その歌が好きでもないけど、なんだか知らないがイエスの手配を感じてありがたくて涙が流れ続けたのだった。
こうなること、ああなることがありがたいのではない。
イエスが私たち(夢見る者である心)に必要なことを必要な分ちゃんと手配してくれるからありがたいのだ。それはすべて癒しの機会なのだ。
だからこのコンサートギャザリングにありがたさを感じているというよりも、このような機会(自分には何もわからないけど)を手配していただけていることそのもの、面倒を見られていることそのものがありがたかったのだ。
あと、余談だけど福音書などを含めてイエスの細かなエピソードをしっかりと、ほぼ一日中読んでいると、それがこの夢見の中の幻想レベルだったとしても、この世をそうやって看過して超えた元人間の元男がいたのかって、そりゃすごいな、相当ぶっ飛んでてカッコいいな〜〜!と今更ながら思っている今日この頃。
(つづく)
(仮邦題)「イエス・愛の福音」 デイヴィッド・ホフマイスター "Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister
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✨以下、本書の「2. Jesus, What Is My Relationship to You? / イエス、私とあなたの関係とは何でしょう?」より、いくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。
自我とは、神とは異なる自分を作ろうとする偽りの企てです。
それはまた、実相の創造者である神の座を乗っ取ろうとする企てでもあります。心は心自身を超えて創造することはできないわけですから、この企てが不可能だという認識が贖罪なのです。
したがって、誤った創造や投影は不可能であり、形態や知覚には意味がありません。
人生の意味は、神が創造した真の自己(スピリット)として存在することによって見出されます。ですから、被造物(スピリット)が思い出されるためには、知覚の世界は赦されるか解放されるしかありません。
天国の記憶は残されているにもかかわらず、自我を信じることにより、その記憶は自覚から押しのけられ忘れ去られたように見えます。
スピリットは創造し自我は作り出しますが、贖罪は被造物こそが実在で、神からの分離という自我の信念は起こらなかったと示します。
癒しも悟りも、そういったものなのです。