【14】Jesus: A Gospel of Love (2024年3月24日、今感じていること)
毎日色々なことがあるのでブログを書くのが間に合わない感じ。
何しろこの人生全体宇宙全体を映し出している心の浄化と癒しを第一優先にしている。
もっぱら、一瞬一瞬、一日一日を大切にすることを試みている。
今日が人生最後の日、このセッションが最後でもう二度とない。
と、覚悟を決めることに集中している。次はないと考えると、成功とか失敗とか、よく見られるとか勘違いされるとかの思考が遠のく。
今、愛だけを教える。自分にも世界にも愛だけを教えるのだ。
そうしているせいか、昨日のデイヴィッドの映画セッション後のランチ中に期せずして、かつては憎悪のシナリオだったはずの思い出が浮上しては愛の中に溶けて、愛に再解釈され愛としてそれらが延長されていく。
昔々、14歳くらいの時に父と罵り合っていたあの場面、そのシチュエーションは自我が捏造した過去の映像で、憎悪関係のデータだったとしても、
私が私に「今日が最後の日として愛だけを教える決断」で記憶を迎え入れると、LovelyでSweetieな記憶としてそのシーンの父のことも私のことも、私は愛しているのだ。
なぜなら、そののり子の身体が私じゃなかったし、父がその人間じゃなかったから。
私も彼も同じ者で、分離していなかった聖なるキリストだったので、全ての影が影に過ぎず、その背景には聖なるキリストが臨在していたのだ。
なんてLovelyなんだろう。お父さん、Lovelyだね。
っていう想念が繰り返し繰り返し延長されていく。お父さんだけじゃない、全ての関係が麗しい聖なるキリスト物語だったんだな。幸せだったんだな。
と、再解釈が自動的にダウンロードされていってそれに任せている感じ。
(※ただ、デイヴィッドコミュニティに滞在してるから起きた奇跡ではなくて、デイヴィッドコミュニティに滞在して、神を1番にするという本気のコミットをしている兄弟たち大勢と共に過ごし続けて、そこに自分を捧げきる決断を日々していることと、更に今日が最後の日として、次はない可能性の覚悟をしているからこそ、受け取る許可が起きている奇跡だろうと、経験からそう感じてる)
(仮邦題)「イエス・愛の福音」 デイヴィッド・ホフマイスター
"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister
「4. Speak on the Creation and the Fall of Man / 被造物と人間の堕落について語る」よりいくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。