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私は人に恵まれている

もう春ですね。春が近づくとよく見かけるようになる花の中で特に好きなのがミモザです。花言葉は「感謝」や「友情」などがあるみたいですよ。

さて、今日は私が人に恵まれている話をしたいと思います。自慢ではありません。私が大学生の時に、やたらとSNSで自分が人に恵まれていることをアピールしたがる「フライ級女子」というワードがnoteに誕生し、それ以来響きを気に入って頻繁に使わせて頂いています。自分は別にアピールしているつもりはないのですが、呼吸をするように「私は人に恵まれているなあ!」と言ってしまうので、まあ誰かから見た私もフライ級女子なのかなあなんて思ったりもします。友達から冗談で「あやじゃん笑」と言われることもありました。(この記事は私が使う「フライ級女子」がどこから来たのかを記載したまでで、記事の中身は特段関係ないです。)

なぜこのテーマでnoteを書こうと思ったかと言うと、最近この私の「人に恵まれている!」という発言に対して「それはあなたが素敵な人だからだね」「引き寄せの法則だね」と言われることが多くなったからです。自分が人に恵まれていることに対して感謝はあっても「なぜか」ということを考えたことがなかったので、目から鱗でした。そうか、私が引き寄せてるんだ!と嬉しくなる一方で、自分自身としてはどう思うのか、考えてみたくなりました。

恵まれの歴史

いつから自分が人に恵まれていると感じ始めたのか考えてみました。それは小学校2年生の頃にまで遡ります。海外生活を終えて、初めて日本の小学校に通い始めた時、正直私はものすごく浮いていました。アメリカ式で育ったので特別自己主張が激しかったし、前倣えや赤白帽といったひとつひとつの意味がわからなくて抵抗していたし、挙げ句の果てには興奮するとクラスメイトを英語で捲し立てていた私を誰一人悪く言うことなく受け入れてくれました。当時担任だった先生も、日本の学校のルールを根気よく教えてくださったし、本当に優しい方でした。そこで母が私に「あなたって本当に人に恵まれているわね」と言っていたのが最も古い記憶だと思います。それを聞いて私も「そうだなあ」と思っていました。

そういう意味では恩師には恵まれた人生でした。小学校、中学校、高校、大学、出会った先生方は皆熱心で素晴らしい方々だったと思います。大人になって改めて思うけれど、たくさんの素敵な大人たちに導いてもらいました。先生だけではありません。学生時代から今まで本当に大切に思う友人にも恵まれて、彼らがいなければ人生なんて楽しくないと思うほどにはかけがえのない存在です。楽しいことは何倍にもしてくれて、辛いことは分けあえる、そんな友人を持てることは本当に幸せだと思います。職場の人にも恵まれました。可愛がってくれる先輩、慕ってくれる後輩、時に厳しくも真剣に向き合ってくれて背中を押してくれる上司。今、自分の人生に関わってくれた人たちのことを思い返しながら涙が出そうになるくらい、みんなに出会えて幸せです。もっと言えば家族だって、本当に大好きで有難くて、あまり考えたことはなかったけど改めて恵まれたと思っています。

どうして「恵まれた」のか?

では、私はどうして人に恵まれているんでしょうか。その答えは3つあると思います。ひとつめは「運」、ふたつめは「自分のおかげ」です。そしてこの2つは密接に関わっています。

恵まれたのは運

やっぱり最初に頭に思い浮かぶのは「運」です。出会いを含め日々起きるたくさんのことは偶然の積み重ねでできていて、タイミングといった不安定なものに左右されます。例えば「一期一会を大切にする」というのも、出会いや巡り合わせが自分のコントロール外にあると思うからこそ出る言葉だと思います。
それから具体的な例を挙げると、先生や上司、職場は自分で選べないの要素が多いので、そういった出会いは運だと思います。

恵まれたのは自分のおかげ

先ほど先生や上司に恵まれたことは運だと書きましたが、ただ一方で自分のおかげだと思う面もあります。例えば、学校も職場も努力して入った場所です。なので、そこで人に恵まれたのはある意味そこに身を置くために自分が行った努力があったからだとも思います。

そしてここでさらに「自分のおかげ」と思う根拠となるエピソードがあります。それは高校生の時に通っていた予備校でとても素敵な仲間に出会えたことです。みんな互いに切磋琢磨して支えあいながら受験勉強に励み、無事志望校に合格しました。ここでまた私は人に恵まれていたなあ!と思うのですが、これは私が勉強を頑張っていたから同じ思いの人と通じ合えたし、相手のことを支えたいと思ったから支え合えたのだと思います。だから、「恵まれている」と感じさせてくれる人は自分で引き寄せたと言っても過言ではないと思うのです。自分で言っていてなんだか恥ずかしいですが。

確かに偶然を積み重ねた運に支えられる部分も多いけれど、そのベースになっているのは自分の選択や思考なので、自分のおかげでもある。一方で、その自分の選択や思考を形成しているものも運で決まっていたりするので、運と自分のおかげは因果がどちらでもあり得るし、両方私を人に恵まれる人にするのに重要な要素なのです。

何にフォーカスするか

私が人に恵まれている3つめの理由を話していませんでしたが、これは「捉え方」です。例えばコミュニティに自分以外に2人いたとします。1人はとっても意地悪であなたを嫌な気持ちにさせます。でももう1人はあなたのことをとても大切にしてくれるし、尊敬できる素敵な人です。この状況に身を置かれた時、人の考え方はふたつに分かれるでしょう。「こんな嫌な人がいる、私は人に恵まれないな」「こんな素敵な人に出会えた、私は人に恵まれてるな」……そうです、私は後者なのです。

確かにいい人が周りに多いのは間違いありません。ただ一方で、もちろんいい人ばかりではありませんでした。思春期の頃は友だちに仲間はずれにされたこともあれば、職場で合わない上司もいました。誰かに裏切られたと感じることもありました。その時はひどく悩んで、苦しんで、めそめそ泣くこともありました。でも、それで私は人に恵まれないとは思いません。

仲間はずれにされたけど、それがきっかけで仲良くなった友人たちとは今でも仲がいい。合わない上司との生活は辛かったけど、いろんなことを学べたし(自分も悪かったし)成長して後に尊敬する上司に会えた。この例だけ挙げると結果よければ全て良しなのでは、と思われるかもしれないが、これは途中を切り出しても同じことを言います。

あとは「捉え方」とは少し違う話ではあるけれど、辛かったことを忘れる能力は高い方なので、いい記憶の方が残りやすいのもあります。例えば、嫌なことをされた人でも、いい面が見えたら結果いい人だと思うとか、当時は人に恵まれなかったと思っていても過ぎたら結果恵まれていたと認識が変わったりとか、多分お人好しな部分もあって結果「恵まれていると思っている自分」が形成されている可能性も否定できないなとは思っています。

感謝とその感度

これは幸せと似ているのですか、結局人に恵まれているかなんて主観なんです。自分が恵まれていると思えば恵まれているし、恵まれていないと思えば恵まれていないんです。私は恵まれた経験と恵まれなかった経験とがあっても前者にフォーカスをするし、そこに感謝するハードルが低かったりするのだと思います。恵まれていると思う感度が高いのもあるのかもしれない。でもそのおかげもあって私は「人に恵まれた自分」になっている。

だからミモザの花言葉のように感謝は忘れずに生きていきたいですね。

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