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スタート・ゴール・新しい時

2009年 12月 聖公会新聞

 イルミネーションの光景が随分と目に馴染んできたが、先日遠方に暮らす信徒さんとの別れ際に「どうぞ良いお年を」と挨拶を交わした。教会の暦は既に新年を迎えたが、生活カレンダーは今年のカウントダウンに入っている。年賀状の事を気にしながら今年の出来事を回想し、新しい年に向けて何らかの目標を思い浮かべたりする。時の流れは年々加速するように感じられる中、仕事は時間に追われずにこなしたいと願うのだが、結果は惨憺たる現状だ。


 新年を迎えるのは喜ばしい事であるし、新年に限らず人生や生活の中で喜ばしいスタートを切るのは、希望に満ちている時だ。この場合希望とは、時間がたっぷりと備えられていてあらゆる可能性に富んでいることを意味するだろう。大概このような状態を幸せと感じるものだ。入学、就職、結婚、出産、快復、これらも新しい時の始まりであり、そこから始まる時が備えて与えてくれるであろう出来事に期待を大きくするのである。

一方、時間に関して私たちは、スタートばかりでなくゴールも持っている。年末、卒業、退職、別れ、不治、そして死。時間が限られている事を知るとき、与えられた時の意味、命の意味、人生の意味を問い、そこに価値を見出したいと願うのではないだろうか。


 半年程前から教会に通っている方がおられる。話を伺うと、日本全国を飛び回って働き大成功を収めた時期もあったが、今では失われたものも少なくはない様子。昔通った日曜学校の記憶を胸に、電話帳で教会を探し出してからずっと通っておられる。もうすぐ還暦。これを機に、神様のもとで新しい人生を始めたいと仰っている。

教会は、洗礼・堅信を通して、新しい時を与える所だ。これは希望に満ちていて、たっぷりと限りなく備えられた恵みの時である。人生のゴールの先には、神様が備えてくださる時が始まっている。


新年を祝う時、私たちの生活においてはまだ時の流れの中で迎えた一つの節目であるが、やがて迎える真に新しい時の始まりの擬似的な体験に近いのかも知れない。どのような人生にも新しい時が備えられている希望は、喜びの源である。

「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章2節)

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