敵を愛するなんて・・・。でも敵が意外な相手なら?
青春の入り口が平成の始まりだったので、昭和のこどもらしく親にぶたれた記憶がはっきりとある。こどもの頃は、注意されたことを一回で身に着けられる人が不思議で、うらやましかった。私は忘れっぽくて、マイペースで、腰が重い。きっと落ちこぼれ感が強いこどもだったと思う。何度言われても母の注意を行動に移せないので、よく平手やげんこつをもらった。そろそろ手が飛んでくる頃合いかもしれないと、首をすくめつつ正座で長い説教を耐えていたことも度々だった。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
(マタイによる福音書 5章39節)
母にぶたれた記憶はあるけれど、どこをどのようにということまでは記憶にない。でも、自然な流れで考えれば、グダグダとして言うことを聞かない娘の目を覚ますべく平手でピシャリとするなら、断然利き手の右手でコントロールするだろうと思う。そうなれば、向かい合った私の左側にヒットする。
聖書には「だれかがあなたの右の頬を打つなら、」とある。
これには深い理由が隠れている。
右の頬を打たれる時は、相手が左手を使うか、右手の甲を使う時。これは、相手を見下す人物の行為で、主人が奴隷に罰を与えるやり方。人間ではなく、不浄のモノを扱う手で相手を侮辱しているのだ。
聖書は言う。「左の頬をも向けなさい。」
私にとってはこういう意味になる。
「あなたのことを侮辱する相手を前にして黙って引き下がるな!」
「自分は人間だということを主張しろ!」
昭和育ちの私には、鬼コーチが叫ぶ声のように響いてくる。
自分を侮辱する相手、自分を人間とみなさないような相手、しかも圧倒的な多数派を相手に立ち向かう時、一体どれほどの勇気を必要とするだろう。まるで勝ち目のない勝負ならば、打たれるままに我慢する方が楽だ。
けれど、イエス・キリストは何度も私の心に語る。
「左の頬を向けなさい」
これは他の誰でもなく、私への叱咤激励。同時に偽りのない後ろ盾なのだと感じる。自分は人間であり、自分の人生を正真正銘の自分として生きるという大事な核を守ることをあきらめようとするなら、そんな弱腰な自分の心こそが最大の敵なのだと思うに至った。そう、本当の敵は逃げたくなる自分自身。
私が大切にしたい教会のあり方は、自分らしく生きることに勇気と希望を与える場となること。決して誰かの生き方を、一定のスタイルに矯正することではない。イエス・キリストという人は、100%間違いなく左の頬を打たれる人の側に立っている。だから私も、こちら側で生きることに決めた。