祈り、私の仕事。
2009年 9月 聖公会新聞
「司祭、お祈り!」呼ばれるところと言えば、お祈りの時。礼拝前、礼拝中、礼拝後、食前、信徒訪問、病者訪問、朝に夕に、ありとあらゆる所で牧師は祈る。祈ることはもちろん歓迎だ。それに、他の誰かと一緒に祈るとことも大歓迎なのだ。中高生のつっかかりながら捧げる祈りに、心の中でガンバレ!と念じながら辿り着くアーメンには、思わず微笑みがこぼれる。一方、信仰歴が長く、お祈りも身に付いた長老たちの祈りには、整った祈りの体裁にも感心するが、それ以上に神様への深い信頼にいつも感動を覚える。
今年のイースターの祝会で、最年長の教会委員さんがお祈りを捧げて下さった。その祈りの最後に、「保育園々舎増築計画を祝し導いてください。」という願いが込められた。園舎増築計画は直前の運営委員会で初めて話題に登った事だった。主任保育士として活躍され、昨年就任した園長の二十年来の願いでもあることが、その時の説明で判明した。この時点において私の中では、祈りの小さな一粒種として心の片隅に置かれたものだった。しかし、最年長委員さんの祈りによって、この小さな種は境内地の土の中に蒔かれ、水も与えられたのだ。保育園職員、教会信徒一同が「アーメン」と唱えて目を開いた時、この祈りに、そしてこの方の信仰に、素晴らしいものを見た感覚が走った。
「老人は夢を見、若者は幻を見る。」というヨエル書3章1節の言葉が胸に浮かんだ。
これは、北海道教区が今年の宣教標語にしている聖句である。聖マルコ教会の老人は、既に園舎が増築された様子を夢に見ているのだ。この夢は単なる個人的な夢ではなく、神様がこの老人に語らせている、お恵のご計画なのかも知れない。私は、この祈りと夢見る老人の姿に、目に見えない神様の働きが人々の前に示されたような感慨に満たされた。
日本聖公会は百五十年、旭川聖マルコ教会は百十四年の歴史を持つ。それぞれ歩みの中で、老人の夢と若者の幻は繰り返し与えられて来た。今、新しい夢が語られ、共に希望を抱きつつ歩み続ける教会が、神様の御栄光を現す器として祝福されますように。
主はこう言われた。
「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば主なるわたしは幻によって自らを示し夢によって彼に語る。」
(民数記12章6節)
*追記:この祈りは豊かに実り、翌年には立派な保育室が増築された。