連帯を意識する生き方
2009年 7・8月 聖公会新聞
旭川に来て最初に感激したのは、青く広がる空を背景にそびえる大雪山系のダイナミックな姿である。特に冬、白銀に埋め尽くされた山肌が、くっきりと稜線を浮き上がらせた姿には心奪われる美しさがある。
大雪山には学生時代、ワンダーフォーゲル部の仲間と秋の紅葉が素晴らしい季節に一度登っている。落ち葉に覆われた登山道、頂上付近の歩きにくいガレ場、前夜にテントで友人たちと笑い転げた事など、思い出がよみがえる。初めは気軽な野外活動のつもりで入部したのだが、実際そこには山を巡る独自の世界が広がっていた。大きく膨れたザックを背負い、部から貸与された古くさいヤッケを着、登山靴を履いた足もとはドタドタと音を立てた。月に一度はこうして街を出て、山の中に入って行った。オシャレとかカワイイとか言うものとは違っているが、興味深さや面白さの面では尽きることのない世界である。
狭い山道をパーティーで登るため、メンツは順序に従って縦一列になる必要がある。先頭はサブリーダー、次に体力面で考慮されるべき人、他のメンツ、そして最後がリーダーである。先頭は蜘蛛の巣取り、最後尾は熊よけと言う笑い話があるが、サブリーダーとリーダーに挟まれた形で登る。サブリーダーはルートを示し、リーダーはメンツの背後から皆の様子をうかがい、ペースを確認し、休憩や給水の合図をかける。リーダーが最後を歩くのは、グループ全体を見守るためなのだ。一方、水や食料、燃料、非常用具等はパーティー全員で分担して運ぶ。また、個人装備や体の不調は、時にパーティー全員の生命に関わる事もある。いわば、全員で一つの生命共同体として山に登るのである。
山は美しさや豊かさを持つのと同時に、生きる者を脅かす厳しさをも有している。人生は登山に譬えられる事があるが、多くの場合この美しさと厳しさになぞらえているのだろう。だが、一つの生命共同体として登る行為の方に、私はより人生を感じさせられる。キリスト者の人生は、先頭を行くキリストが示すルートを辿り、神様の見守りを背後から受け、皆で糧を分かち合い、同じテントに宿り、御国の到来を目指す。長い休憩やペースダウンを要するメンツにも、共同体の命を守る装備が託され、必要とされている。ここには連帯がある。神様と、私たちの。
御自身の国と栄光にあずからせようと、
神はあなたがたを招いておられます。
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章12節