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平和を祈る巡礼者~シスター・アンのこと~

2017.09 北海の光 巻頭言

 シスター・アンは、今年の真冬に留萌に現れた。防寒ヤッケに帽子を被り、リュック一つが持ち物のすべて。お金は持たず、車などの乗り物には一切乗らず、ひたすら自分の足で歩いて旅をしている。歳は五十代半ば。日本に来た目的は、長崎から広島を経て日本の最北端に位置する稚内市まで平和を祈りながら歩いて巡礼をするため。距離は片道約2280キロ。行く先々の教会や信徒宅、時にはお寺や神社にも宿を借りながら、ついに稚内市に到達した帰りに立ち寄った留萌市。地方紙に載った小さな記事によると、カトリック教会に宿泊したシスター・アンは、幼稚園の子どもたちに旅の話を聞かせ、信徒らと夕食をともにしたということだ。


 修道者になったのは最近のことで、それまでは米国の物理学者で大学教授。企業の研究にも携わり、高級車で街を走り回るなどいわゆる成功した人生を謳歌する日々を送っていた。その中で徒歩巡礼の旅と出会い、お金で欲しいものがなんでも手に入る人生では得られなかった充足感を体験し、次第に徒歩巡礼に夢中になって行く。


 聖地巡礼の際、突然銃で武装した集団と沢山の銃口に囲まれた彼女は、勇敢にも彼らとの対話を試みた。「武器を持たない女性一人を殺すために、銃を持った男は一人で十分ではありませんか?」兵士と思われる集団のリーダーが促すと、十人ほどの男たちは銃を下ろした。

彼女はさらに尋ねた。「あなたが本当に求めているものは何ですか?」リーダーは答えた「俺たちは好きで戦っているのではない。自分の子どもたちの未来のためにこうするより仕方ないのだ。」「子どもたちが、平和に暮らせるように祈ってくれ。」

この言葉とともに、彼女は解放されたのだった。死んだも同然の状況から生還した彼女は、人生を大転換させた。自分には失うものはもう何もないことに気づき、それを絶好のチャンスととらえた。そして、人生のすべてをかけて、平和を祈る徒歩巡礼を志すようになったのだ。


 留萌を後にしたシスター・アンが向かったのは、36キロ離れたN町だった。雪深い真冬の北海道を歩くのは、命の危険と隣り合わせである。一体何時間かかったことだろう。その晩は、ある家がシスターの宿だった。

けれど、その家族にはシスターを迎える準備が整っているとは言い難い事情があった。夫婦と二人の娘が暮らすその家の女性たちはそれぞれに、鬱や引きこもり、ダウン症といった重荷があった。シスターがどうしても必要ならば、歓迎はできないが来ても良しとされたのだった。

ところが、言葉も十分に伝わらないであろう、疲れ切ったはずのシスターを迎えたことで、この家の人々はたちまち元気を取り戻した。なんとも不思議な話だが、家の中がとても明るくなって、それは楽しい時間を過ごしたと言うのだ。そして、翌日出発したシスターを見送ると、本当に神様は必要な場所に天使を使わしてくださったと、この家の主人は語っていたという事だ。


 かつて物理学者だった時代、彼女は核の研究に邁進したのだった。しかし平和を祈る巡礼者に生まれ変わった彼女は、長崎・広島から北の果て稚内までのすべての道のりを、祈り通し、歩き通した。「この道を歩んだ人が、平和であるように。この道をこれから行く人に、平和があるように。」


サハリンを望む宗谷岬には、戦没者の慰霊碑、家庭・地域・世界の平和を願う子育て平和の鐘、大韓航空機撃墜事件の慰霊碑などが置かれた平和公園がある。シスター・アンが熱心に祈りながら歩いた道だと思うと、とても尊い祈りの上を歩かせていただいていることに喜びを感じる。私の心も、天使の訪れを喜んでいる。神様の御業に感謝。

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