光と影 等しく愛おしい
2009年 11月 聖公会新聞
久しぶりに大型ショッピングセンターへ行ってみると、既にクリスマスの雰囲気が漂っていた。そうだった、保育園の職員会議でも、教会委員会でも、クリスマスの計画を話し合ったのだ。もうすぐクリスマスを迎えるのだ。北海道のホワイト・クリスマスは、なかなかロマンチックだ。電飾が灯った教会のツリーの周りには、カメラに向かって微笑むカップルや、喜ぶ子どもの手を引く親子の姿がある。息も凍るほどの寒い夜も、教会の中は暖かく、明るく、穏やかで人々の笑い声に満ちている。
クリスマスの楽しみの一つに、キャロルを歌うことをあげる人は多いだろう。母校の北星学園(長老派のミッション・スクール)では毎年クリスマス特別聖歌隊が募集され、約一ヶ月間練習を重ねてクリスマス礼拝で奉仕した。私も楽しく参加していた。
中学校の聖歌隊は礼拝奉仕の他に、刑務所の慰問をしていた。色々な事情でそこに暮らす人たちは、年の離れた兄のように見えたし、父親や祖父のようにも見えた。皆一様に伏し目がちで、じっと聞いて下さっていた。賛美歌の他に、赤とんぼや故郷を練習し、聴衆の皆さんと合唱した。その中には、目のあたりをしきりにぬぐう人の姿もあった。これは、今でもクリスマスになると、思い出される記憶である。
親しく暖かい交わりがある一方で、離れて冷めてしまった関係もある。聖らかで平安な状態もあれば、信用ならない汚れた事もある。同じ時代、同じ世界にいながら、様々な状況や思いの中で暮らす私たちの実態。幸いと不幸、愛情と憎しみ、喜びと悲しみ。普段の生活ならばやり過ごせた物事に、否応なく世間の光が当たってしまうかのようだ。
私たちを友と呼び、天の国について話された主イエスは、ぶどう園の労働者の譬えを用いて語られた。
「朝から一日中働いた者の労働の汗も、誰にも省みられなかった人の涙も、神様はよくご存知で、双方を等しく愛される。」
光と闇のコントラストが複雑化する社会の中で、キリストの降誕は今年も世界中で祝われる。人の目には分離した世界であっても、キリストの目には等しく愛すべき人々の世界として映るのだ。神の家族として祈る私たちの内に、ぜひ、救い主においでいただこう。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書 1章23節)