つながるあなたの味方です。
2009年 6月 聖公会新聞
顔見知りになった近所の小学生女子二人。彼女らのポケットには、携帯電話が入っていた。最近の驚きトップ3入りである。確かに電話は大変便利な道具であり、その恩恵は絶大である。そして携帯電話に限らず、電話は時に重要な役を担うことがある。教会と繋がれた電話の向こうで、心の内を蕩々と話し続ける人がいるのである。
この一年間で、未信者からの電話相談を何度か受けているが、いずれも話し手が充分に話し終えるまでには一時間や二時間は必要で、時には三時間を超えることもあった。一度きりの方もあれば、リピーターもあり、どの方も偶然なのかは不明だが、女性である。教会の電話に答える女性の牧師の声に驚かれながらも、だからこそ話せるオンナの現状が次々と語られる。離婚やその後のトラブル、病気や手術、困惑するお見合い話、生活困難など、詳細を伺いながら、私も一緒に怒ったり、悲しんだり、なんとか励ましたりするのです。「教会なら聞いてもらえると思いまして。」という動機に、彼女たちが教会に求めるのは、人間の温もりであり、もっと言えば「親友」としての存在ではないかと思わされるのである。
アラフォー世代の友人の中に、最近結婚を終わらせる事になった人がある。この人は学生時代の部活動の先輩であり、卒業後も仲間の中心的存在で、この知らせに大勢の友人が悲しんだ。彼を励ます会も開かれた。その後インターネット掲示板に、仲間の存在が大きな励みになっている旨と感謝の言葉が書き込まれていた。さらに仲間の一人は、「原因はどうであれ、自分は彼の良き理解者であり続ける。」というコメントを残した。私はこの言葉に大変感動した。たとえどんな場合でも理解を示しサポートをする存在こそ、「親友」の姿である。まるで現代版、良きサマリア人である。
教会に来る電話が信徒からの場合、事務連絡が殆どである。私も信徒宅へ電話をするときは大抵連絡事項のみである。しかし、これで良いのだろうか。同じ社会に暮らしていて、未信者は率直な悩みを語る一方で、信徒は事務連絡のみ。信徒がしっかりしているのか、牧師が忙しそうにしているからか、心を開く切っ掛けを失っているのか、信頼関係の問題か。私は牧師として信徒の親友となり得ているだろうか。教会を必要とする人の親友であるか。真剣な問いである。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
(ローマの信徒への手紙 13章 9節)