害虫
害虫
窓を開けた瞬間にカナブンが一匹、天井の明かりに釣られて部屋に飛び込み、次の日もそいつは死ななかった。こうしたら勝手に外に逃げて行くだろうと、昨日と同じように窓を開けたら、逃げて行くどころかもう一匹飛び込んで来て、そいつも今日まで死ななかった。気付いたら部屋の天井にはもう一匹増えた三匹のカナブンがいて、地上には一人、俺という人間がいる。
今日こそ俺はお前らをどうにかせねばならない。そんな気がしていた。
ゴキブリのように菌を撒き散らすかは知らないが、飛び回る音で気が散る。一日二日経てば死ぬもんだと、カナブンの寿命を舐めていたが、そういえば人間だって水さえあれば二週間は生きられる。なかなかくたばらずに三日目、俺は痺れを切らし、夕食のニラにんじんチヂミを焼きながらクイックルワイパーを手に持った。
俺は本当にか弱い人間だ。俺は最も死亡率が高いという精神疾患を患っている。実際何度も死にかけ病院に運ばれ、輸血や点滴をされ生き永らえている。常日頃薬を何種類も飲み、おまけに今日は腹一面に掻き傷がある。昨夜カナブンの羽音に釣られ、全身を虫が這いずる夢を見て身体中を掻き毟っていた。カナブンのせいで満身創痍の身が更に死へと近付いている。
俺はクイックルワイパーの「ワイパー」部分を縦にして天井にぶっ刺し、カナブンを天井から窓の外に飛び立たせるか或いは「ワイパー」に止まらせ窓の外に誘導しようとする。しかし、飛び立ったカナブン共は再び天井に戻るか、止まることなく颯爽と天井を這い「ワイパー」部分から逃げる。俺は何回か「ワイパー」をぶっ刺すも、それが繰り返され、だがそろそろニラにんじんチヂミをひっくり返さねばならない。俺はイライラして来た。
何故今日の夕食がニラにんじんチヂミかというと丁度にんじんが半分余っていたのと、これを食べないと死ぬからである。か弱い人間である俺はこれ以上体重を落とすと本当に死んでしまう。それを防ぐための食事――熱量を厳密に計算しギリギリ死なないレベルの食事量を保っている。ニラにんじんチヂミはその礎であるが、引っくり返すと裏面は焦げ、ニラの鮮やかな緑は茶色くなっていた。カナブンとの格闘が長引き過ぎた証拠だった。俺は更にイライラしてくる。時刻は深夜零時を周り、空腹、焦げ、ニラにんじんチヂミ早く食べたい。
俺は天井に刺した「ワイパー」を通常通り横向きに、天井と並行になるように持ち直し、カナブンの下に添え、一気に突き上げる。「ワイパー」が天井にべたりとくっ付いて下敷きになったカナブンが潰れる、算段だったが「ワイパー」の表面には凹凸があるからか、見ると潰したはずのカナブンは天井にまだ引っ付いて動き回っている。俺は何度も「ワイパー」を強く、天井に突き上げた。
俺は六歳の時に母親に捨てられ、父親には暴力を振るわれて育った。大学進学時に家を出られたがストーカーやいじめに遭い、最も死亡率が高いというこいつを患った。卒業後一年間3つの病院で入院し、就職出来たものの病気を理由で解雇され、以来ニートだ。先週このマンションに引っ越して来たが、ここは「障害者グループホーム」といい、精神疾患がないと入れない。隣人は聞こえるくらいの大声で理解出来ない文句を叫び、いよいよ俺も仲間入りかと、隣人の声を聞き流し思う。
バシンバシンと天井を何度も叩く。それだけではまだピンピンしていて、叩いた後に天井に「ワイパー」を密着させ強く擦りつける。それらを十数回続けた後ようやくカナブンは天井から床に「剥がれ」落ちてきた。探すとゴミ箱の横に仰向けになっている。腹の色は思ったよりも薄い緑で、これならニンジンニラチヂミのニラの方が濃く鮮やかな色をしていると思う。要領を得た俺は次のカナブンを目掛けてクイックルワイパーを構える。もはや「ワイパー」を縦にする気はない。俺は次のカナブンを潰す邪魔が入らないように、開けたままだった窓を閉めた。
俺はクイックルワイパーを突き上げながら父親から竹刀で打たれたことを思い出す。母親が急に消えた日のことを思い出す。俺が何か悪いことをしただろうか。思い当たることはないのに、俺は何故かいつも弱い立場に置かれている。インドのようなカースト制が現代日本にあるとするならば、昔から俺はその最底辺で、職なし金なし病気持ち、常に大きなものに踏み躙られている。だが俺の病気は体重を増やす、熱量計算などせず成人並みの量を「普通に」食べるというとても単純な方法で治すことが出来る。にも関わらず俺にはそれが出来ず、出来ないから病気なのだと熱量を測りニンジンニラチヂミを焼く。フライ返しで表面を強く押さえ付けると、じゅっ、と焼ける音がする。
俺はクイックルワイパーを突き上げながら思う。俺の部屋に飛び込んで来たカナブン達は、何か悪いことをしただろうか。答えはすぐに出て、殺されるか或いは飢え死にするかわかっているにも関わらず俺の部屋に飛び込んで来たのが悪い。二匹目のカナブンは最初のカナブンよりスムーズに殺すことが出来た。床に転がる二匹のカナブンを俺はティッシュで包みゴミ箱に捨てる。摘み上げる時に身の潰れた臭い匂いがし、俺は自分からケトン臭がすると医者に言われたことを思い出す。偏食やダイエットが原因で、死にかけの患者からもする匂いらしく、カナブンと俺とどちらが匂うだろうかと顔を薄く顰める。最初は殺すつもりはなかった。死んだ体の感触がわからないようティッシュを何重にもして触れた。
もうすぐニンジンニラチヂミが焼ける。一刻も早く格闘を終えなければならない。だが三匹目は何処を探しても見付からなかった。俺が二匹と格闘している間に天井から離れ姿を消したらしく、俺は三匹目を殺すのを諦め、クイックルワイパーをフライ返しに替えた。ようやく食える。片面は焦げたがもう片面は丁度良いくらいに焼けていて、俺は丁寧にタレの調味料の重さを測り、火を止めて箸でニンジンニラチヂミの表面を割った。さくり、という良い音がし、心踊らせて齧り付いた。
不味い。非常に不味い。油も敷かず肉も入れてないので味はほぼなく、タレには酢が効き過ぎていた。だが捨てることは出来ない、食べずに捨てれば俺は死に、ゴミ箱には二匹のカメムシがもう既に殺され捨てられている。俺がやったのだ。か弱い俺が、この手で。笑いがこみ上げて来た。
「なは、なははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
俺は笑いながらニンジンニラチヂミにタレを漬け、食べ進めた。酸っぱさとニラの青臭い匂いが口に広がるが、食べないという選択肢はなく、腹は膨れ、満たされた。三匹目のカナブンは殺さず、生かしてやったのだ。俺だってその気になれば生かすことも殺すことも出来るのだ−−。
「なは、なははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
三匹目のカナブンは次の日も、その次の日も見付からず、死体が転がっていることもなかった。ということはまだこの部屋の何処かで生きているということなのだろうが、俺の邪魔をしないのならどうでも良かった。あの日以来俺は夢で魘されて全身を掻き毟ることもなく、今日も元気に熱量計算をしかぼちゃパンケーキを焼いている。だがニンジンニラチヂミを食べた日、俺は自分がカナブンになる夢を見、カナブンになるとは一体どういうことなのか、悪いことなのか、このマンションにはカナブンも入居することが出来るのか、隣人に文句を言われるだろうなということを考えて、生き永らえている。
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