正しさとはなにか 続き。
正しさとはどこにあるのか、ということについて再び。
本当に正しいことがどこかにあるとするならば
他者が主張する正しさAと
わたしが考える正しさBとの狭間で
わたしはその「本当の正解」をどうやって求めればいいのか。
ここでひとつ。
今すぐに回答を出さずに、保留にして抱えておくことは当然アリだということ。どちらともつかない考えを持て余している時間は何にもかえがたい。果たしてその考えをより味わい深くしてくれるのか、よりドツボにハマるのか、わからなくても。おでんの蓋は味が染み込むまでは何度も開けたりしない方がいい。
というか世の中は答えを出すことを急ぎ過ぎている、と思う。
では、回答を選択しなければならない事態に直面したとき、または保留にし続けていることが苦しくなってきたときにどうすれば良いか。
(ここでの「回答」を、実際にわたしがとることにする行動、と定義します)
レッスンで先生が仰ったひとつの考え方。
自分の中の〝ベスト〟をやりきること。
自分の持っている知識をすべて使ったときに出てきたもの、それがベスト。今のわたしの答え(のような何か)になるのかも?
はい、最後は疑問形で終わりました。
それは「正解」と呼ぶものというより、私が〝今のわたし〟自身に対して唯一求めるべき回答、というように私は解釈しました。
なんだ、結局、他者の意見には耳を貸さなくていいから、自分の考えを貫けっていうこと…?
そこでもうひとつ。
自分の知識とは、〝いま現在のわたし〟が持っている知識。
その知識はこれから常に変化する可能性を持っている。
知識が変われば、すなわちわたしのベストも変化する。
でもいまこの瞬間のわたしのベストは、いまのわたしが持っている知識によって生み出されるのだから、そのベストを全うするのです。
なるほど、ベストとはどうやら、いまこの瞬間にしか発揮することができないようです。
ベストはいまこの瞬間においてのみ存在し、時間が経てば変化するものである、ということですね。
でも、じゃあ世界に数多ある知識の中から、ベストを生むための〝正しい〟知識をどうやって採用すればいいのか?ベストな知識の選び方はどうやるんだ…?と考えてしまったり。
しかしこのとき直感的にわたしは次のように思いました。
回答を出すのは、なんと言おうといまこの瞬間できるのだと。
だから「本当の正解がどれか分からないから選ぶことができない」、と言うことは、わたしが「私はそれについて何も分からないのだ」ということをわたし自身に言い訳しているだけなのかもしれないな、と。
ちょっとややこしくなりました。
しかし先に進めます。
わたしは最初にこの話を聞いたあと、やはりドキッとしました。
自分が
ベストを全うせずしてほんとうの正しさを探し求めていることを見抜かれているような気がして。
不正解を選びたくないという思いが、選択することをギリギリまで避けていることに気づいたとき、己の想像以上の臆病さに慄いてしまうほどです。
正解を探すことをやめて
代わりにわたしたちはなにを行うのか。
ベストを全うした結果が報われるかどうかは誰にもわからない。そのベストがほんとうに正しかったのか、答えを与えてくれる存在はいない。
けど、そこに向かう以外に行くところは無いのではないか。
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