column●映画「スパイの妻」を読む ◆柴崎信三
「入れ子」の構造で描いた〈映画〉と総力戦体制の闇
モダニズムが溢れる神戸の街にも、日増しに高まる軍靴の音とともに人々の暮らしへの監視と、「非国民」に対する特高の弾圧が強まっている。貿易商の主人公、優作(高橋一生)と妻の聡子(蒼井優)の自由で安逸な暮らしにも、その足音は身近に迫ってくる。
ヴェネツィア国際映画祭で日本映画として17年ぶりに監督賞(銀獅子賞)を得た黒沢清監督の「スパイの妻」は、総動員体制の下で時局に抗って自由に振舞う夫と、当初はその夫を疑いながら敵国のスパイとなることを選んでゆく妻の視点から展開してゆくサスペンス劇である。スパイといっても、イデオロギーや敵国からの利益誘導に同調するのではない。〈非常時〉という大義の下で、自由な日常の暮しを国家の理不尽な暴力が引き裂くファシズムの時代を潜り抜けるために、生き方としての「スパイ」を彼らは選ぶのである。
2・26事件が起きた1936(昭和11)年を物語の起点とし、劇的な展開の舞台になるのが日米開戦前夜の1940(昭和15)年である。夫が商用で出かけた満州から持ち帰った映像が国家機密とされる内容だったことから、二人の幼馴染の憲兵隊長(東出昌大)から厳しい追及を受けて、次第に夫婦は変貌してゆく。そうした総力戦体制の時代の「風景」として、いくつかの印象的なショットが画面には組み込まれている。
ひとつは、優作と聡子が見に行った山中貞雄監督の名作映画「河内山宗俊」のポスターが張り出された神戸の街角である。1936年公開のこの映画が伝える寓喩(ぐうゆ)は深い。
山中貞雄は「人情紙風船」などを遺した映画監督で、若い日の小津安二郎はその人柄と才能に惹かれて親密な友情を結んだ。江戸後期の茶坊主を主人公にした時代劇「河内山宗俊」を監督したあと、1937(昭和12)年に召集されて、一兵卒として中国戦線に従軍する。少し遅れて召集令状を受けた小津も大陸へ派遣され、陸軍伍長として南京攻略戦などに加わった。戦地で山中との再会を果たすことができたのは、所属する部隊が近かったからだった。三十分ほどの束の間の旧交を温めて別れた山中が半年後の秋、過酷な徐州作戦の途上で病に倒れて急逝したことを知って、小津は慟哭する。
山中貞雄㊧と小津安二郎
遺書があった。
〇陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐。申し置く事ナシ。
〇日本映画監督協会の一員として一言。
〇『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず。
〇最後に、先輩友人諸氏に一言
よい映画をこさえてください。以上。
昭和十三年四月十八日
山中貞雄 (都築政昭『小津安二郎日記』講談社)
若い日に同じ従軍先の中国大陸で失った親友の山中は、小津にとって映画と戦争という二重の意味での〈戦友〉であった。その心の痛みは、自らの作品に〈戦争〉の主題を直接扱うことを遠ざけてゆく要因の一つになっていったに違いない。戦後、「東京物語」に代表される〈家族〉の崩壊を描いた作品で世界的な巨匠となってゆく小津にとって、山中貞雄の「河内山宗俊」とその死は〈映画〉への眼差しを確立してゆく上で決定的な経験であった。
「スパイの妻」の示導動機(ライトモチーフ)を構成するもう一つの映像の引用は、このフィクションのプロットに直接絡んで登場する主人公の私的映像と歴史上のドキュメントである。
優作はパテベビー9・5㍉という輸入フィルムを使って趣味の私的な映画を撮り、自分の会社の忘年会で披露する。妻の聡子がアイマスクを纏って演じるスパイ映画のような映像の背後に流れるのは、当時日本で流行していたハリウッドのミュージカル映画「ショウボート」(1936年制作)の主題歌、「かりそめの恋」。小林千代子が歌うはかなくも美しい旋律は、この時代の孤立してゆく日本を映す鏡のような効果を生んでいる。
「かりそめの恋」の歌に託されたこの映像のフィルムは、物語の後半で二人が日本を脱出する際、夫の優作が満州で入手して持ち帰った「国家機密」の映像とすり替わることによって、「スパイの妻」という作品を劇的に飛躍させる大きな効果をもたらしている。
「ショウボート」はもともと作詞のオスカー・ハマースタイン2世、作曲のジェローム・カーンによって1927年にブロードウェーで初演されたミュージカルである。ミシシッピ河を往来する興行船(ショーボート)を舞台に、黒人との混血の娘が差別や貧困に苦労を重ねながら舞台女優として成功してゆく姿が映画でも人気を集めた。敵国米国で評判の高い娯楽映画の主題歌が、戦時体制へ向かう日本でも愛唱されたのである。
「スパイの妻」で引用される映像の要となるのは、優作が満州から持ち帰った「国家機密」とされるドキュメントであろう。作中では説明されていないが、それは満洲から戻った優作が妻に対し「新京郊外で山のように積まれて焼かれる死体を見た」と告白する言葉に対応した関東軍防疫給水部、いわゆる731部隊にかかわる映像である。
日本軍の秘密機関として、この組織に属した軍人や医師らが細菌兵器の開発にあたり、ペストやコレラ、チフスなどの細菌を使った人体実験を多数の現地住民に対して行ってきた事実は、これまで当事者の証言や記録資料によって明らかにされてきた。実験の犠牲者は三千人にのぼるともいわれる。
1936(昭和11)年に旧満州のハルビンに設置されていまも残るという731部隊の研究施設や、人体実験とその犠牲者と思しい映像など、優作が持ち帰った「国家機密」は当然、憲兵隊の厳しい追及の標的となって二人は追い詰められてゆく。
監督の黒沢清が繰り返し述べているように、「スパイの妻」はあくまでもフィクションとして作られた娯楽作品である。引用されたこれらの映像は、優作と聡子という夫婦をはじめとする登場者を背後で支える歴史の書割に過ぎない。そして優作が満州から持ち帰った「国家機密」として重要なプロットとなる「731部隊」の映像は、物語の結末に用意された〈どんでん返し〉のための一素材に過ぎない。
けれども、同時にここでは黒澤が意図したのか否かはさておき、総力戦体制へ向かう日本という歴史の局面で〈映画とは何か〉という問いが、これらの引用に重ねられていると読むこともできる。その意味でこの作品の主人公は、実は〈映画〉それ自体なのである。
戦時の翼賛体制がすすむと、映画を含めた文化表象は自由な表現への統制と戦争へ向けた国民精神の動員へ向けて、国家の一律の規範の下に置かれた。映画人では多くの人材が山中や小津のように、兵卒として戦地に動員されて危機に向き合い、制作の現場から遠ざけられた。一方で、戦後「羅生門」で日本人初のヴェネツィア国際映画祭のグランプリを受けた巨匠、黒澤明のように、戦中は一度も召集を受けることもなく国家の後ろ盾の下で戦争翼賛映画に次々とかかわってきた人もいる。
「スパイの妻」はそんな時代に「自由」を探って国家と対立し、そこから離脱してゆく若い夫婦を描いた娯楽映画である。だがそれが「歴史のなかの映画表現」という、大きな問いの外皮に包まれた「入れ子」の構造を持っていることに、目を向ける必要がある。
パテベビー9・5でキャメラを構えた優作は、実は国家総動員体制下の日本の映画監督(シネアスト)なのである。
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