三島由紀夫という迷宮⑩ 無機的で、からっぽな大国 柴崎信三
〈英雄〉になりたかった人❿
1970年9月13日、大阪・千里丘陵で行われていた日本万国博が閉幕した。世界77か国が参加し、183日間にわたる内外からの入場者は6421万人に上った。モノレールと動く歩道が会場をつなぎ、NASAのアポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示する米国館には連日長蛇の列ができた。音声認識のロボットや移動 体通信などの最先端技術の粋は人々に〈戦後〉の終わりと、グローバルな近未来への夢を大きくかきたてたであろう。
とはいえ半世紀を経た今日、この国際的な巨大イベントの最も印象的な遺産は何だったのかと問われれば、それはいまも残るあの巨大なトーテム、美術家の岡本太郎が造形した「太陽の塔」であることに誰も疑いをはさむことはない。
それは確信的なある〈文化〉への挑戦であり、対決であった。モダニズムの巨匠、丹下健三が会場中央の「お祭り広場」の上空を、鉄骨とガラスで作った幅百㍍、高さ三十㍍、長さ百九十二㍍という大屋根で覆った。最新技術を集めたお祭り広場の構築には、「人類の進歩と調和」という博覧会のテーマを体現する技術合理主義の未来と、成長の時代の先に広がる風景が形をあらわしていた。
そこへある日、プロデューサーに選ばれた岡本太郎が広場の完成した天井を打ち破り、巨大なトーテムを思わせるシンボルを建て始めたのである。当時、丹下の下で展示やイベントの演出にあたっていた建築家の磯崎新が振り返る。
「太陽の塔」は高さが70㍍、直径が20㍍、両手を広げた巨大な土偶のような立像の胴部は鮮やかな紅白にデザインされ、頂点に黄金の顔が乗っている。胴部にもう一つの顔が彫り込まれたその姿は、未開社会のトーテムのようでもあり、立ち上がってくる気配は謎めいて不気味でさえある。
設計者の岡本太郎が回想している。
「太陽の塔」は、その内部にも岡本太郎が滾らせた文明批判がさまざまな仕掛けで繰り広げられていた。地下の「いのち」の展示には生命体の根源をたどるたんぱく質やDNAの模型、「いのり」では世界の民族の仮面や偶像を陳列した。さらに「生命の樹」では人類の誕生にいたる進化の過程をアメーバや爬虫類などの生物の模型でたどる。文明の先へ向かって人類の進歩を探るというより、生命の源へ向かって遡行することによって、人間のもつ根源的な生命力を掘り起こそうという、まこと挑戦的なたくらみである。
科学技術と合理主義が導く未来への賛歌につつまれた万博会場で、中心の「お祭り広場」に屹立した岡本太郎の奇怪な「太陽の塔」は、それに対する大胆な〈ノン〉であった。広場の群衆のあいだに、三波春夫がうたうこの浮薄で明るい「万博音頭」の歌声が響きわたっていた。
〈蹶起〉への階段を足早に上りつつあった三島由紀夫が、この「大阪万博」にどのようなまなざしを注いでいたのか。あるいは、目を塞いで通り過ぎたのか。
七月に『豊饒の海』の最終巻となる『天人五衰』の連載がはじまってほどなく、三島は戦後25年をテーマに「果たし得ていない約束」という随筆を新聞に寄稿した。
「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」とは、〈蹶起〉を4か月後に据えて三島が大阪万博の喧騒の彼方に思い描いた、この国の近未来ではなかったろうか。
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1970(昭和45)年11月25日の正午過ぎに三島が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自決を遂げた日の午後、駆け出し記者の私が近くに住む文芸評論家の江藤淳を訪ねて談話をとったことは、この稿の冒頭で触れた。
学生の頃に江藤淳とはささやかな接点があった。
といっても、留学した米国のプリンストン大学から戻った江藤が、母校の慶應義塾へ非常勤講師で出講した「現代芸術」という講座を受けたという、それだけの経験に過ぎない。西鶴や上田秋成、そして森鴎外などを講じた記憶がある。
若手の論客として評判の江藤の講座は人気が高く、教室はいつも学生があふれた。後年、作家の車谷長吉をはじめ何人かが、この講座の思い出を記している。
三島由紀夫の蹶起と自裁の直後、現場にいた私が向かった江藤の自宅はそこから目と鼻の先といっていいほどの距離にある高台のマンションである。人気作家の異様な自決からまだ数時間しかたっていない。
あの江藤淳がどのような発言をするのかは、個人的にも大きな関心であった。すでにテレビの現場からの中継や特別番組、新聞の号外、海外メディアへの速報など、日本中がこの異様な事件の興奮に包まれている。にもかかわらず、書斎で会った江藤のあたかも事態を予知していたかのような冷静さは、かえって奇態にさえ映った。一時間余りの談話は翌日の紙面に「伝統回復あせる」という見出しで掲載された。その談話筆記がそのまま『小林秀雄 江藤淳 全対話』に収録されているので、一部を読み返してみる。
三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁が〈戦後〉という時代の終焉がもたらした、作家の〈内部の反乱〉であったことを寸分の迷いもなく論じているのである。もちろん、ここでは「天皇」にも「自衛隊の国軍化」にも触れていない。
かつて三島が満を持して発表した『鏡子の家』をめぐって、文壇やメディアが示した冷ややかな反応に対し、三島由紀夫にとっての「空白の時代」である〈戦後〉を描いたこの作品を「いかにも燦然たる成功ではないか」とひとり擁護に回った江藤は、この作家の轟轟たる幕切れをどこかで予見していたのだろうか。
翌年の夏、「歴史について」というテーマで小林秀雄と対談した折にも、三島の死をめぐる見解で江藤はこの「批評の神様」と激しく対立して応酬した。
日本の伝統と〈皇御国〉に触れて「三島君の事件も日本にしか起きえない」という小林の言葉に江藤は「三島事件は三島さんに早い老年が来た、というようなものでは」と返した。それに小林が「それは違う」と激しく反駁する。
「歴史というものはあんなものの連続ですよ」という小林に対して、江藤は醒めた言葉で立場を譲らない。「批評の神様」も形無しである。それは、三島の荒唐無稽な〈蹶起〉と自裁への違和感に加えて、日露戦争時に山下源太郎と並んで大本営高級参謀を務めた海軍大佐を祖父に持つ江藤が、自らを近代日本の〈治者〉に連なる立場に位置づけて、〈戦後〉という同時代の秩序に対する「責任」を自覚していたことにも、かかわっていたはずである。
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ところが三島の死は、それから新しい悲劇の連鎖を呼び起こす。
若い三島の才能の発掘者であった川端康成の自死である。
これまで往復書簡を通してたどってきたように、川端は少年の三島の絢爛たる才能を掘り出し、文壇に導いて作家としての足場を支えた恩師とよぶべき人である。ともに王朝美学の伝統を作品のなかに求めてきたという点では、美意識の類縁関係を結んだ〈同志〉でもあったに違いない。
戦中に十代の三島が初めて出版した『花ざかりの森』への謝礼にはじまり、自決の前の夏に三島が送った最後の手紙まで、大量の往復書簡が一冊の本になっているくらいに、二人の親密な関係は〈戦後〉一貫して続いた。
当初、昭和初期に西欧の新しい潮流の影響を受けた「新感覚派」のモダニストであった川端は、代表作の『雪国』で「トンネルの向こう」の温泉場を非日常的な〈異界〉に見立て、「駒子」というヒロインを通して日本人の心に潜む「かなしみ」を造形した。それは戦時下を生きる人々の眠った古層を目覚めさせた。
国粋的な美意識とは一定の距離を保ってきた川端が、敗戦をきっかけに〈日本〉へ回帰してゆくという歩みは、いかにも歴史の時流とは真逆である。それは西欧との対決に生きた畏友、横光利一の戦後の死が引き金となったといわれる。
声涙共に下る横光への弔辞は「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」という言葉で締めくくられる。そこから川端の戦後が始まっている。
川端が〈敗戦〉で得たのは、戦後の日本人が真の悲劇も不幸も感じる力を失ったという苦い認識であった。この虚無的な経験を通して「私は日本古来の悲しみのなかに還ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるいは信じない」〈『哀愁』〉という激しい宣言が生まれる。つまり、〈戦後〉を断念することから、川端の戦後ははじまった。
『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』などの川端の戦後の主要作品に共通するのは、古典的な伝統美学を下地にしながらその中心に流れる虚無的なエロティシズムである。老人が眠り続ける若い娘をひたすら目で愛撫する快楽を描いた『眠れる美女』を、三島は「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と絶賛した。その三島の先を越して川端が日本人初のノーベル文学賞を受賞するのは、繊細にして危ういエロティシズムが国際社会からある種の異国趣味として評価され、自然や官能描写が好奇のまなざしに迎えられたことに負っている。
戦中戦後の川端の履歴とこうした作品に流れる耽美的な特質は、三島との強い文学的な親近性を裏づける。それゆえに、ある時点から三島が〈蹶起〉へ向けた行動に急速に傾いてゆくことを危ぶんで、川端は いささかの距離を置いた。
1970年11月25日、「三島自決」の日に川端康成は妻の秀子と美術史家の細川護立の葬儀の参列していた。一報を聞いて、その足で市ヶ谷の自衛隊の現場に駆け付けたが、すでにことは終わっていて為すすべはなかった。ノーベル文学賞を受賞して以降、頻繁だった手紙のやり取りも減り、「楯の会」の一周年パレードも欠席していた。三島の過激な政治行動への没入に疑問を持ったからだが、ここに及んでは、自分が彼を諫止出来なかったことへの重苦しい悔いが襲った。
翌年一月に、川端はこのように書いた。
三島の自裁が、川端に大きな喪失感と動揺をもたらしたのは間違いない。
1月24日に東京・築地本願寺で行われた三島の告別式で、川端は葬儀委員長を務めた。そのあとの3月、東京都知事選挙で圧倒的な人気のあった革新系現職の美濃部亮吉の対立候補として、自民党が立てた元警視総監の秦野章の応援になぜか名乗りを上げ、街頭で選挙カーに立って候補とともに演説した。
ノーベル文学賞を日本で初めて受けた文豪であり、ずっと「政治」を遠ざけてきた〈日本美の伝道者〉が、革新都政を打倒するために立った強面の元警視総監の応援を突然買って出た理由は、謎である。無報酬、交通費まで自前でのぞんだその姿は、取材で会った私の記憶のなかでも奇態で、痛々しくさえあった。訝り、好奇のまなざしを寄せるメディアや世論のなかで、選挙は結局秦野の完敗であった。
不眠に悩む川端が睡眠薬の常用者で、以前からそのコントロールに苦しんでいることは家族や編集者など、周辺のだれもが知るところであった。3年まえのノーベル賞の受賞以降、それは高じてゆき、三島の自裁からのちの感情の起伏が著しくなっていたことは確かであろう。「三島君が夢枕に立つ」と周囲に漏らすこともあり、おそらく事態はそこから続いていた。
4月16日の午後、川端は鎌倉市の自宅を出て、仕事場にしていた逗子マリーナのマンションへ赴いた。帰宅予定の夜になっても連絡がとれないため、午後9時ごろ家政婦二人が部屋を訪れると、自室でガス管をくわえた川端が絶命しているのが見つかった。そばに睡眠薬とウィスキーの瓶があり、自殺と断定された。
三島由紀夫が異形の死を遂げてから、まだ一年余りしかたっていない。後を追うような川端康成の自死に、江藤淳はすぐさま「なんとひどい、まずしい時代だろう。いたるところに穴があいている」と、怒りを含んだ悲傷をあらわにした。
『枕草子』の一節をひきながら、川端康成が四季と齢の巡りという日本の伝統のなかの〈自然〉を自らの手で断ち切った背後にある、大きな〈荒廃〉に江藤の筆は及んでいった。戦後の川端が「日本古来の悲しみに帰ってゆくばかりである」と宣言した、その〈かなしみ〉は戦後の世相のなかで風化して、もはやない。
川端はノーベル文学賞を受けた翌年、ハワイ大学で行った『美の存在と発見』という講演のなかで、〈日本美の伝道者〉として拠り所にしてきた王朝時代にさかのぼる古典文芸の伝統が、国際社会からの祝福を受けながらも衰微の一途をたどっていることに、深い失望を隠していない。「日本の物語文学は『源氏』に高まって、それで極まりです」という川端の発言を、いわば現代日本の文藝から衰退した〈伝統〉に対する鎮魂のことばとして、江藤は読み込んでいる。
日本の伝統文芸の衰弱をこのように受け止めていた川端が、三島由紀夫という王朝美学の〈嫡男〉を失った衝撃とそのあとの心細さは、想像を大きく超える。それは敗戦直後に畏友、横光利一を失ったとき、「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」と宣言した折の悲傷と喪失の感覚を、あるいは遥かに超えていたに違いない。
江藤淳は「あらゆる貴族趣味の外観にもかかわらず、大衆社会の産物だったという点で、川端氏の文学が三島氏の文学と奇妙に似通っていることは否定しがたい」と書いた。〈現実〉を喪失した戦後の川端康成の文学は、地域文明の特色も普遍的価値への足掛かりをもともに失い、孤立と袋小路に迷い込んだこの国の現実の表徴である。川端の自死はその崩壊を映した鏡だったのではないか―。
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1985(昭和60)年の春、江藤淳は夫人の慶子とともに春の園遊会に招かれ、東京・赤坂御苑の会場にいた。あいにくの小雨模様で、濡れそぼる桜の花の下でほかの参会者と傘をさして佇んでいたところへ、侍従長の入江相政に導かれてモーニングコートの昭和天皇が、良子皇后とともに静かに歩んできた。
「文芸評論家の江藤淳氏でございます」
入江の紹介に、昭和天皇は江藤に近寄っていった。
「江藤かい、いまでも漱石やってるの?」
江藤がライフワークで取り組んでいる『漱石とその時代』のことである。
「そのとき畏れ多いことながら、私は陛下のお息を感じた」と江藤は書く。
それから四年後の一月、昭和天皇は87歳の生涯を閉じた。
江藤は「字余りのお歌」という追悼のエッセイを書いている。
亡くなる前年に天皇が遺した御製についての一文である。
前年の九月、伊豆の須崎御用邸で詠んだ歌だという。早朝、目覚めた床の中で聞こえていたアカゲラが木をつつく音が、ぱたりと止んだ。どこかへ飛び去ってしまったのだろうか。静まり返った部屋で、天皇は自身にそう問いかけている。
下の句が字余りの〈七八〉で終わる破調の「最後の歌」に、江藤は戦前戦後の「昭和」という二つの世を〈帝〉として生きた天皇の深い寂寥を見る。
かつて〈天皇〉という観念をめぐって、「現人神」と「人間」のあいだの自家撞着から異形の自裁に至った三島由紀夫をとらえて、「あれは一種の病気でしょう」と平然と答えて小林秀雄を怒らせた江藤が、昭和天皇の87歳の崩御に深い悲嘆を繰り返し、そのあとに始まった〈平成〉という時代と象徴天皇制を俎上にして激しい批判と叱咤の言葉を重ねてゆく姿は、一種異様にさえ映った。
夏目漱石が『こころ』のなかで描いた「先生」は、明治天皇に殉死した陸軍大将、乃木希典夫妻の後を追って自ら命を絶つ。その「先生」の姿を、江藤は自身に重ねていたのかも知れない。
崩御の翌日の一月八日、氷雨が降りしきる皇居前広場には玉砂利を踏んで、老若男女がぞくぞくと途切れることなく弔問の記帳に列を作った。天皇の崩御を悼む人並みは、さざ波のように続いて、その数は最初の10日間だけで233万人にのぼったという。古来の皇統のもとで日本人のなかに生きてきた「沈黙の合意」が、その求心力を動かしている、と江藤は述べている。そしてそれが、〈平成〉の時代の進行とともに音もなく崩れはじめた、というのである。
冷戦構造が崩壊するとともに、グローバリゼーションの下で広がったバブル経済が破綻した。国内ではいわゆる〈55年体制〉が崩れて、自民党の一党支配による長期政権が幕を下ろした。阪神淡路大震災によって6432人の死者を出し、オウム真理教による地下鉄サリン事件などテロ事件が社会不安を広げた。〈平成〉の初めの5年間をたどれば、〈戦後〉を支えてきた安定と調和が恐ろしい勢いで揺らぎ、日本社会が分断されるという危機感が江藤のなかに広がったことは想像できる。さりとて、その動揺がもたらす失意と憤怒の矛先が、〈平成〉という新たな時代の日本の皇室のありようにまで及んでいったのは、なぜなのか。
1995(平成七)年1月17日の未明に起きた阪神淡路大震災のあと、江藤は雑誌『文藝春秋』誌上に『皇室にあえて問う』と題した論考を寄稿した。
そこでは大震災が起きたあとに、予定されていたとはいえ皇太子夫妻(現天皇皇后)が被災地への慰問を差し置いて、中東歴訪の旅へ出たことを憤るのである。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災のその日、当時摂政宮であった二十二歳の皇太子、すなわちのちの昭和天皇裕仁が直後から一睡もせずに情報を集め、翌日には一千万円の下賜金を拠出した。10日後には「天変地異ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ヤカニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ」との詔書を渙発し、自らが被害の著しい帝都の視察に赴いている。
その歴史の経験と阪神大震災をめぐる政府や皇室の動きを対比させて、「千年に一度(傍点引用者)という震災に遭遇し犠牲者の遺体がまだあちこちに埋まっているその最中に、あたかも何もおこらなかったがごとく、皇嗣が外国を歩いておられるとは何事であるのか」と、江藤は強い憤りをあらわにしている。
雅子皇太子妃は江藤の類縁にあたる。昭和天皇崩御のあと、江藤のなかに〈皇室の藩屏〉の意識が急激に高まっていったことも背景にはあろうが、そこから戦後民主主義と〈象徴天皇制〉そのものを真っ向から否定するような、激しい口吻を繰り返す姿に人々は驚き、戸惑った。昭和天皇の崩御とともに日本社会に広がる「昭和のエートス」の崩落を、江藤は冷静に受け止めることができなかったのである。
阪神大震災の4年後、1999(平成11)年7月21日に江藤淳は鎌倉市の自宅で自死した。遺書が認められていた。
一年前に愛妻の慶子を病で失ったことから、著しい心身の疲労によって健康を損ねたことが自裁につながったとみられる。それに加えて「平成」という新たな時代に江藤が募らせた強い違和感が、衝動に拍車をかけたこともあったはずである。
江藤が『南洲残影』の雑誌連載を始めたのは、この大震災が起こる前年の1994(平成6)年の秋である。ライフワークの『漱石とその時代』がまだ道半ばという時点で、近代日本の悲劇の英雄で「偉大な失敗者」である西郷隆盛の西南戦争の敗走と自裁という、凄絶な最期をとり上げたのは(時運)であったのかもしれない、
演出家の久世光彦が、江藤の死をそう振り返っている。
『南洲残影』は勝海舟と江戸城の無血開城を成し遂げた英傑西郷が、政府から下野したのちに不平士族たちの私学校党を率いた西南戦争を戦って無残に敗走し、悲劇的な最期を遂げる姿を、薩摩琵琶の『城山』の曲譜に重ねて描いている。
敗北が自明なこのたたかいに西郷がなぜ立ったのか。江藤がここで舞台に選ぶのは薩軍が最後の死闘の末に滅んでいった田原坂の戦いの顛末である。
1995(平成7)年3月、江藤は取材のために熊本県植木町の田原坂の戦跡を訪れた。前日に東京ではオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きて、多数の死傷者を出している。その未曾有の出来事をとらえて、「この国が崩壊を続けていることだけは疑い得ない」と江藤は『南洲残影』に記している。
戦跡の田原坂は春の雨に煙っていた。坂の上までのぼり詰めると石碑があり、十七日ほどの戦いで、四千人以上の死傷者を出して薩軍が四散したことを記した、陸軍大将有栖川蟙仁の撰文が刻まれている。さらにその先に足を進めたところで、江藤は思いがけず、もう一つの小さな文学碑を見つけて大きく心を動かされた。
戦前の「日本浪曼派」の詩人で、十六歳の三島由紀夫の『花ざかりの森』を見出した蓮田善明の詩碑であった。この植木町に生まれて旧制成城高校の教員などを務めながら雑誌『文藝文化』の中心として活躍した。陸軍中尉として中支や南方の戦線を従軍したが、マレー半島のジョホールバルで終戦を迎えた直後、通敵行為を告発して連隊長を射殺、直後に拳銃で自裁した。四十一歳だった。
碑文の「ふるさとの驛」と「かの薄紅葉」という言葉をたどりながら、江藤は「一種電光のような戦慄が身内を走った」と告白している。
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫という、自裁したこの三人を、歌碑に刻まれた「ふるさとの驛」と「かの薄紅葉」の詩句がつないでいる―。江藤は明治10年の西郷の〈滅亡〉をたどるなかで、ゆくりなく三島由紀夫の〈産土〉にめぐり合ったことに驚愕するのである。「この時空間には、昭和二十年の時間も、昭和四十五年の時間も、ともに湛えられてめぐりくる桜の開花をまっていた」と。
平成七年の江藤淳もまた、滅びゆく近代日本の〈殉教者〉の連環のなかにいた―。
=この項続く
◆標題図版 岡本太郎「太陽の塔」(大阪・千里丘陵、1970年)