美の来歴㊹ 留学生森鷗外が秘めた日本人画家の恋 柴崎信三
〈うたかたの記〉とバイエルン国王ルートヴィヒ2世の謎の死
陸軍二等軍医という身分でドイツへ留学した鴎外森林太郎が、ベルリンからミュンヘン大学へ移ったのは1886年3月、24歳の時である。首都ベルリンの張りつめた空気と責務から逃れて、バイエルンの香り立つ春は青年の心を緩やかに解き放った。
『うたかたの記』は、そのころの青年鴎外が各国から同じミュンヘンの地へ留学してきた画学生たちと〈カフェ・ミネルバ〉に集い、のびやかな青春を謳歌した束の間の日々を舞台にしている。
紅一点の美しい少女マリーを取り囲むひと群れの学生たちのなかから、旧知の画学生ユリウス・エキステルが立ち上がって、この地の美術学校へ留学するため日本からやってきた画学生の〈巨勢〉を一同に紹介した。
「きょうこの席に初めて加わったのは、遠い日本からここの美術学校に留学してきた巨勢君だ。これから仲間としてよろしくお願いしたい」
「南ドイツの絵をどう思う」「君はどんな絵を描くんだ」などと、学生たちが口々に問いかけるのを抑えて、巨勢はおもむろにドイツ語で6年前に一度ミュンヘンを訪れた折の思い出を滔々と語りはじめた。
謝肉祭で華やぐ街角の風景とともに、菫を売り歩く一人の少女がカフェで客の飼い犬に襲われて花を散じ、店主に邪険に追われて去る姿に心を痛めた記憶である。
巨勢はその折、当地の美術館で見たばかりのライン河の岸辺に生き続ける〈ローレライ〉の伝説の少女を、この菫売りのいたいけな娘に重ねてその場を去ったのである。
飾った胸当てを着けた店員の娘が泡立つビールのジョッキを5つも6つも手に持って各自のテーブルに配り歩くと、一斉に〈乾杯〉の声があがって、〈カフェ・ミネルバ〉の宵が更けてゆく。
団欒のまんなかで巨勢の話に聞き入っていた少女マリーが、やにわに問いかけた。
「ところで巨勢、あなたはその花売りの少女にその後、会ったことはありますか」
続けてマリーは言った。
「実は、その時の菫売りの少女は私だったのです。それにしても、なんと いう奇遇。そしてあなたのその気持ちはなんと嬉しいことでしょう」
マリーはテーブル越しに体を寄せて、向かい側の巨勢に体を伸ばし、その額に接吻した。勢いで前に置いたビールのジョッキが倒れて、酒が卓上と床を浸した。
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くだんの少女は美術学校のモデルを職業とするハンスルという娘で、やがて巨勢が定めたアトリエを訪れて、その数奇な身の上をとめどなく語り始めた。
「私はハンスルという名で通っていますが、本名ではありません。父はスタインバッハといって、このバイエルン国王に寵愛された画家でした。私が12歳の時、王宮の冬の館で夜会がありました。姿の見当たらない国王を父が探したところ、庭の東屋から〈陛下、お許しを〉という女性の声が聞こえて、それはなんと妻、つまり私の母のマリーの声でした。気づいた国王に組み敷かれた父は如雨露でしたたかにたたかれ、それをいさめた秘書官はノイシュヴァインシュタインの城に幽閉されたのです」
「鄙の城で昼と夜を違えた暮らしを好んだ王は次第に暴政をほしいままにして、譫言に私と同じマリーという母の名を呼んだといいます。父はほどなく身罷り、母も病に伏したのちに亡くなりました。身寄りを亡くした私は方便のために菫売りを始めたのです」
「私の世話をしてくれたのはある裁縫師の家で、そこは夜になるとさまざまな客が訪れて酒食をともにし、さんざめく待合のような場所でした。あるとき私は男の客に誘われて座敷船でスタインベルクの湖水に遊んだのですが、岸辺で見舞われた身の危険から逃れて湖のほとりの漁師の家に逃げ込んだのです。貧しい漁師夫婦は私の身の上を案じて、そこで娘として育ててくれたました。ハンスルという名はこの漁師の名なのです」
「さりとて、私には船の舵を取る力さえありません。私は近くの豊かな英国人の家に小間使いとして仕えることになりました。この家の女教師はゲーテやシラーの詩編からルーヴルやドレスデンの美術館の画集などを持ち、それらを自由に見ることができました」
「この英国人一家が帰郷すると、また私はどこかに生計を求めるほかはありません。ここの美術学校のある教師と縁を得て、ようやくモデルの資格を得たのです。私を国王が深く親しんだスタインバッハの娘と知る人はおりません。画学生たちと奔放にまじわり、ミケランジェロからデューラーにいたる西洋美術の伝統へ批判を繰り返す私を〈狂人〉と呼ぶ美術家さえいます。けれども狂人にならぬでもよいあの国王も狂人になったのなら、それも悲しいさだめには違いありません」
語り終えたマリーはやにわに、巨勢に向かって問いかけた。
「これから一緒に、シュタルンベルクへ行きませんか」
あの〈狂った国王〉、ルートヴィヒ2世が隠棲しているというスタルンベルヒ湖の湖畔の村へマリーが同道をもちかけたのは、なぜだったのか。
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鴎外が『うたかたの記』で留学生、巨勢のモデルにしたのは、同じころ画家としてミュンヘンに留学していて親交を結んだ原田直次郎である。
ドイツ留学中の鴎外の『独逸日記』では、約8カ月にわたるミュンヘンでの原田との深いきずなを示す記述が、11回にも及んでいる。あまつさえ、原田を中央に同じ医学の留学生の岩佐新、そしてカンカン帽に三つ揃いを着こなし、ステッキを手に気取ったポーズをとる鴎外が収まった記念写真も残されているのだから、それは格別の交友であったはずである。
1886(明治19)年にドレスデンから移ったミュンヘンで、鴎外はやはり日本から美術学校へ留学してきた原田と知り合った。もともと美術への深い関心をあたためていたこともあって、無欲恬淡ながら才気漲るほぼ同年のこの画学生と結んだ友情は日ましに深まった。
ミュンヘンのこうした穏やかな空気に包まれて、留学中の原田直次郎が描いた代表的な作品がいま東京芸大に所蔵されている『靴屋の阿爺』である。
無名の精悍な老職人が日焼けした顔をこちらに向けて凝視している。伸びた髭とひいでた額が強い光線を浴びた陰翳とともに浮かび上がる。汚れた仕事着の皺や乱れには、日本から留学して西洋絵画のリアリズムに向き合う、若い画家の激しい情動が筆触に結晶している。
原田がミュンヘンで描いたもう一点の肖像画がある。
『ドイツの少女』と題した若い女性像である。この像主はだれなのか。
鴎外の『独逸日記』の8月15日の記述にはこのようにある。
〈カフェ・ミネルバ〉の2階の原田の下宿で鴎外が見た肖像画が、このチェチリアという原田の恋人であったことはおそらく疑いの余地がない。
遠い異郷からドイツへやってきた男に情熱を傾けたチェチリアは、ともにパリへ駆け落ちすること働きかけたことさえあった。才気と美貌にあふれたこの親友の恋人を、鴎外は『うたたかの記』のヒロインに置いた。
「継子よ、継子よ、汝ら誰か美術の継子ならざる」と、珈琲の香りと紫煙に包まれたカフェで仲間の画学生たちに憑かれたように呼びかける、あの少女マリーである。
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バイエルン国王ルートヴィヒ2世が滞在していたベルク城に近いシュタルンベルク湖で不慮の死を遂げたのは、鴎外がミュンヘンでの留学生活をはじめて間もない1886年の6月13日である。
国政を厭って顧みず、自らの道楽で建設した各地の城で昼と夜を違えた生活を繰り返す。かたわらでリヒャルト・ワーグナーの音楽に心酔して寵愛する「狂気の王」は、そのころオーストリア国境に近くに中世の騎士伝説に想を仰いで造形したという、華麗なノイシュバンシュタイン城に住まった。
しかし、ルートヴィヒの乱行と王室が抱える巨額の負債に手を焼いたバイエルン政府は国王の廃位を計画し、逮捕して一通りの精神鑑定を行った上、身柄をシュタインベルク湖に近いベルク城へ移したのである。
国王の死はノイシュバンシュタイン城からベルク城へ身柄を移された翌日であった。
国王ルートヴィヒ2世はその夜、侍医のベルンハルム・フォン・グッデンとともに湖畔の散歩に出かけたあと消息を絶ち、翌朝湖上でこの医師とともに溺死体で発見された。
この事件がドイツのメディアと世論に大きな反響を広げたことはいうまでもない。
地元の新聞報道はもちろん、〈カフェ・ミネルバ〉に集う画学生たちの間でも格好の話題となったはずである。それが鴎外自身の文学的な想像力を深く刺激したであろうことは、事件当日の『独逸日記』の記述が過不足なくあらわしている。
国王が謎の溺死を遂げたシュタルンベルク湖が『独逸日記』に初めて登場するのは、事件前の4月18日。事件が起きて以降は頻繁に「シュタインベルク湖」と国王溺死事件のあった「ウルム村」を訪れており、それから翌年にかけてその地名が日記に登場するのは20回を超える。
これは明らかに、国王ルートヴィヒの溺死をめぐる謎を『うたかたの記』の重要なプロットと考えて、そのための「現場取材」を繰り返した証しと見るのがふさわしい。
『うたかたの記』の主人公、(巨勢)のモデルを原田直次郎という親しい留学画家に求めた鴎外は、その恋人〈マリー〉のモデルに原田へ強い愛着を抱きながら結ばれなかった、チェチリア・プフアツフをあてた。
「曾て原田と俱に私財を擲ちて巴里に遊学せんと議したりと云ふ」と鴎外が書いた、あの才媛である。〈カフェ・ミネルバ〉に君臨して、画学生たちを前に「継子よ、継子よ、汝等誰か美術の継子ならざらむ」と呼びかける少女には、実はその生い立ちの影に国王フリートリヒ二世の暴虐で破滅に追いやられた宮廷画家の父と母がある。いま画学生の前でモデルに立つのも、その因果に導かれているという虚構を鴎外はこの小説で描いた。
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マリーが巨勢をシュタインベルク湖へ同道するよう誘うのは、そうした文脈から生まれている。マリーは夕暮れの湖に巨勢をボート遊びに誘い、そこへベルク城に幽閉されていた国王ルードヴィヒが侍医に伴われて湖畔の散策にあらわれて、彼女と遭遇する。
ほとんど女性を遠ざけてきた王が、かつてただ一人思いを寄せたマリーの母の面影をこの娘に認めて近づこうと湖水に足を踏み入れると、深い湖底の砂と水草にたちまち足を取られ、それを助けようとした侍医とマリーも足を取られて溺死する―。
森鴎外は留学先のミュンヘンで出会った日本人画家、原田直次郎がチェチリアという才色にあふれた女性との間に結んだ恋を素材に『うたかたの記』を書いた。たまたま当地で遭遇した国王ルートヴィヒ2世の不可解な溺死という事件が起きて、この物語の浪漫的な広がりをもたらす背景として大きな飛躍をもたらすモチーフとなったのであろう。
主人公の巨勢が謝肉祭でさんざめくミュンヘンの街のカフェで、菫売りの娘が狼藉に会って客や主人から追われる場面へのまなざしには、華麗なノイシュバンシュタインの城でひとり昼夜を違えて夢想のなかに生きる「狂える王」、ルートヴィヒ2世の孤独とあこがれにどこかで通底している。
原田直次郎はその年の11月にミュンヘンを後にしてスイス、イタリアを巡ったあと、翌年5月までフランスに滞在して、7月に帰国した。
森鴎外は翌年4月にミュンヘンを後にしてベルリンへ戻り、医官としてカールスルーエの国際赤十字総会にドイツ語で講演するなど公務を果たしたのち、1888年九月に帰国した。ベルリン滞在中、原田と同じように恋人の〈エリス〉と深いかかわりを引きずって帰国したのち、その経験をもとに小説『舞姫』を書く森林太郎であってみれば、『うたかたの記』は単なる異郷の日本人をめぐる恋物語を超えた、切実な主題としてあったに違いない。
鴎外が九州小倉に陸軍第12師団軍医部長として赴任していた1899(明治43)年に、原田は結核性カリエスのため36歳で没した。
ミュンヘンの〈カフェ・ミネルバ〉の華で原田に激しい情熱を傾けたチュチェリアのその後の消息は、あきらかではない。
=この項終わり
◆標題図版 映画『ルートヴィヒ』(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1972年)より ルートヴィヒ役はヘルムート・バーガー