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美の来歴㊾ 文豪ゲーテが追った〈山師〉カリオストロの足跡  柴崎信三

ヴェネツィアの仮面劇の陶酔と〈詐欺師〉の時代

 ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロの『メヌエット(カーニバルの光景)』は、鮮やかな黄色のデコルテで着飾った若い女性を中心に、黒いアイマスクや仮面で装った男女が入り乱れて踊るヴェネツィアのカーニバルの一場面を描いている。
 いまや真冬の名物となったこのお祭りは、ヴェネツィアが古都アクイレイアとの戦いに勝った1162年にはじまり、春先までの一定期間に限って人々は思い思いの衣装に仮面をつけて振舞うことが許された。各地から集まった人々が身分や階級を超えて匿名の演者になり、束の間の熱狂に身を委ねる空間は、東方との交易で富を集めた千年の海の都の華やかな遺産である。
 1786年9月28日、乗合船でブレンダ川を下ってきたドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテは、初めてヴェネツィアの地を踏んだ。37歳、『若きウェルテルの悩み』で一世を風靡した作家はワイマール公国の法律顧問や廷臣の仕事が重荷となり、かたわらでかかえた人妻のシャルロッテとの恋が行き詰まっていた。
 陽光溢れるイタリアはかねて憧れの地である。幼い頃父親がイタリアの旅から土産に持ち帰った、ヴェネツィアのゴンドラの美しい模型が、南国への夢想をさらに広げた。
 著作の『イタリア紀行』は文豪ゲーテが〈眷恋けんれんの地〉を巡り、作家としての歩みを変える大きな経験をもたらした長い旅の報告である。

〈ヴェネツィア人はちょうどヴェネツィアの街が他と比較し得ない独特のものであるように、一種の新奇な人間にならざるを得なかった。さながら蛇のようにうねっている大きな運河は、世界におけるいかなる街路に劣ることはなく、また何物も聖マルコ広場の前の空地に肩を並べ得るものはない〉(相良守峯訳)

 アルプスを越えてヴェローナからヴェネツィアに入った折の印象を、作家はこう記した。
 翌日、ゲーテはホテルを出ると地図を片手に、案内人もないまま市内を歩き回った。『イタリア紀行』では修道院や教会の建築を批評し、宮殿のヴェロネーゼの名画に感動を隠さない。しかし、この街で作家の好奇心を最も激しく刺激したのは、そこかしこの劇場にかかっている芝居や、街角で人々が思い思いの仮面をつけて演じるカーニバルの光景であった。

ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン「ローマ近郊におけるゲーテの肖像」(1786-1787、フランクフルト・ゲーテ博物館蔵) 


 10月14日、聖ルカ劇場で見た仮面即興劇に大きな感興を催した作家は、繰り返し仮面劇を見るために劇場へ足を運んだ。
 街では広場や岸辺で、ゴンドラや宮殿の中で、買い手と売り手、乞食、船乗り、女たち、弁護士と依頼人など、あらゆる人間が声高に語りあい、誓い、叫んでは売り、歌い、罵り、笑う。都市の日常生活があたかも劇場で繰り広げられる芝居の一場のように、名前や身分を超えた自由な空気に包まれて人々はさんざめく。
 理性と秩序が先立つ故郷のワイマールの北方的な空気のなかに生きてきたゲーテにとって、この街が醸し出す情念のカオスのような眺めの一つ一つが新鮮で心が躍った。

〈それが晩になると彼らは芝居を見物にでかけ、自分らの昼の生活が人工的にまとめられ、面白く粉飾され、お伽話を織りこまれる。私はかの仮面劇ほど自然に演じられる芝居をあまり見たことがない〉

 当時ヴェネツィアには14か所もの劇場があり、中世から演劇が日常的な都市空間を形作っていた。冬の風物詩である仮面のカーニバルはそこから生まれた野外の祝祭である。欧州の各地から観光に訪れる旅人たちが貴族や商人や職人たちに混じってその群れに加わり、街角の舞台の役者となった。
 ティエポロが『メヌエット』を描いたのは、ゲーテがヴェネツィアを訪れた頃より少し前の18世紀の半ばである。画面では仮面と化粧と衣裳で身分を隠した匿名の人々が、あたかも劇場の舞台のようにそれぞれの配役の下で歌い、踊り、演じている。
 ゆったりと黄色いドレスの裾を広げた中央の踊り子の目もとのつけ黒子ほくろは、〈情熱的〉な性格を表す演劇的な記号コードである。
 その前で朱色の帽子と服をつけて楽しげに踊っている若者は〈山師〉とよばれる流れ者で、都市貴族たちの社交の場に紛れ込んで人々の人気を集めて、時には成功者となった。
 この伊達男の周囲では黒いアイマスクなどで変装した紳士淑女が入り乱れて、喝采を送っている。
 ゲーテがヴェネツィアで仮面劇を繰り返し見て心を寄せた劇場や街角にも、おそらくこの画面と通い合う猥雑な華やぎが満ち溢れていたのだろう。
 
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 ほどなくフランス革命によって混乱の坩堝を迎えるこの時代の欧州にあって、ヴェネツィアのカーニバルの殷賑いんしんは各地に跋扈ばっこする〈山師〉たちにとって格好の隠れ家アジールだった。
   女性遍歴で名高いジャコモ・カサノヴァがその一人である。錬金術師を名乗って怪しい言説をふりまきながら社交界を渡り歩き、一時は名士として迎えられた。ヴェネツィアで投獄されたが、そこからの脱獄劇も冒険家の武勇譚に仕立てて出し物の十八番おはこにした。
 
 ゲーテがイタリアへの旅でその足跡を追いかけた「カリオストロ伯爵」と呼ばれた男も、おそらくカーニバルや貴族の社交の場に紛れ込んだ〈山師〉であった。シシリアの貧民出身でやはり錬金術師を名乗り、〈奇跡〉を説いて王侯貴族ら社交界に食い込んだ。後年、その名前をひときわ高めたのは、のちに革命前夜のフランスの王室の界隈で起きた、王妃アントワネットへの「首飾り詐欺事件」である。

◆エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
『マリー・アントワネットの肖像』(1783年)ヴェルサイユ宮殿


 亡くなった先王ルイ15世が540個のダイヤモンドを散りばめて愛人のために発注した首飾りを、王室御用達の宝石商ベーマーが王妃と親しいラ・モット伯爵夫人を介して王妃に取り入ろうとするロアン枢機卿に購入を持ち掛け、王妃への贈り物と偽って160万リーブルを詐取したという事件である。
 首飾りは王妃に渡らずにバラバラにされて、ロンドンで売却されたことにより詐欺が発覚した。1785年に逮捕されたラ・モット伯爵夫人は事件を陰で操ったの首謀者として、当時社交界に暗躍していた「カリオストロ伯爵」とその妻のロレンツァを告発する。カリオストロは逮捕されたが、のちに釈放されている。 

カリオストロ伯爵ことジョゼッペ・バルサモ(1743-95) シチリアのパレルモ生まれ 医師、錬金術師、降霊術者などをかたって「不老長寿の妙薬」などで各国の王室などに暗躍 のちに「詐欺師」として追われる身となった


 ゲーテは欧州各地に出没した〈カリオストロ〉の消息にかねてから深い関心を寄せていた。
 人間が名前を消し去って別な人間の顔を演じてみせるヴェネツィアの仮面劇から受け止めた感興は、カリオストロなる〈山師〉の仮面をはいで正体を探りたいという作家の気持ちをひときわ高揚させたのかもしれない。
 1786年10月14日にヴェネツィアを後にしてローマとナポリへ旅の歩みをすすめたあと、1787年の4月に〈カリオストロ〉の足跡を探ってその故郷のシチリアのパレルモを訪れ、別人を装って生家で母親との面会を果たした。ほとんど演劇的な〈奇行〉と呼んでもいい行動である。 

〈私が滞在中、始終公開の食卓で、カリオストロのことを、その素性や運命についていろいろ語られるのを聞いた。パレルモ市民の一致した意見では、この町生まれのジュゼッペ・バルサモなる者がさまざまな悪行を働いたかどで芬々たる悪評の的となり、町から叩き出されたことがあるということである。‥‥昔この男に会ったことの或る人も何人かいて、彼らの言うところによると、彼の姿格好はドイツでは誰知らぬ者とてはなく、パレルモにも送られてきているあの銅版画の肖像と瓜二つだということだ〉

 カリオストロがこの街に生まれたバルサモという悪党と知って、ゲーテは英国人の友人、ウィルトンを名乗ってその生家に母と妹を訪ねあてた。
 息子の消息を訊ねる母にゲーテは「彼はいま、釈放されて英国で不自由なく暮らしていますよ」と安心させ、手紙を言付ことづかって去る。作家的好奇心の発露としても、あまりにも荒唐無稽な振る舞いではあるが、それは当時の欧州社会でこの〈山師〉が巻き起こしていた醜聞の霊気アウラの大きさを伝える挿話である。
 
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 表立ったエピソードをたどると、欧州社会で〈カリオストロ〉が暗躍するのは1780年のストラスブールにはじまり、1785年に先に触れたパリで王妃マリー・アントワネットの首飾り詐欺事件の首謀者として登場するまでのたかだか5年間に過ぎない。
 この間「錬金術師」や「医師」を名乗って欧州の各都市に出没したこの〈山師〉は、王室や貴族たちの社交の場で〈魔術〉や〈奇跡〉を演じて喝采を浴びたが、やがて荒唐無稽な言説で世間を欺く「詐欺師」「ペテン師」とわかると、手のひらを反すように舞台から引きずりおろされた。こうした毀誉褒貶の振幅の大きさも、人々の好奇心をかきたてた要因であったろう。
 ゲーテが英国人の友人を装って故郷のパレルモの生家を訪れ、母親と面会していたころ、当の本人のカリオストロは首飾り詐欺事件で投獄されたバスティーユ監獄から釈放されて渡ったロンドンから、再び大陸へ戻ってスイスのバーゼルに身を潜めていた。

◆カリオストロことジュゼッペ・バルサモが生まれたシシリアのパレルモの街並み

 それまでの間に〈カリオストロ〉が欧州各地で巻き起こしたスキャンダルの数々は、確かに〈伝説〉と呼ぶほどに華々しい。
 シチリアのパレルモの貧しい家庭に生まれたジュゼッペ・バルサモは窃盗や詐欺、女衒ぜげんなどを常習として修道院から追放されるが、錬金術師に弟子入りして「秘術」を身につける。かたわらフリーメーソンの分派を掲げて〈カリオストロ伯爵〉を名乗り、妻となるロレンツァ・フェリチアーニとともに欧州各地の社交界を渡り歩いた。
 ミタウのクアラント公国、エカテリーナ2世のロシア宮廷、ポーランドのポニンスキ大公、ストラスブールのロアン枢機卿のサロン‥‥。
  カリオストロと妻のロレンツァが欧州各地の宮廷や貴族たちのあいだを縦横無尽にめぐり、彼らを手玉に取って繰り広げた奇想天外な〈秘術〉とは、ほとんど子供だましのような手口である。
 いかさまの富くじやただの水を使った若返りの美顔術、小さな真珠を大きくして再生させる秘法など、鳴り物入りの〈奇跡〉はいかにも怪しげで、騙される人もいれば騙されない人もいた。ただ、そこにはどこか詐欺それ自体より、作り話を周囲に振りまいて喜ぶ〈愉快犯〉の気配があった。
 ロシアのペテルブルクではエカテリーナ女王が、のちにカリオストロの〈奇跡〉の秘術を主題にした喜劇『詐欺師』を書いて上演し、喝采を浴びている。ばかばかしい〈詐欺〉の「秘術」がむしろ微笑ましく語り伝えられる、ペテン師の挿話である。
 欧州ではフランス革命のうねりが旧体制を揺るがし、それまで支配してきたカトリック社会の秩序に代わって、〈山師〉が跋扈する混沌と無秩序の気配が広がっていた。
 価値が紊乱する時代であればこそ、人々はこの怪しくも得体のしれない詐欺師夫婦の〈奇跡〉の口上に奇妙な解放感を見出し、あえてそれにまかせて騙されたがっていたのかもしれない。
 
 イタリアを旅していたゲーテがパレルモまで足を伸ばし、この〈カリオストロ伯爵〉の生家を訪ねて母親と面会を果たしたのは1785年の2月である。
 『イタリア紀行』が書かれたの1817年。この4半世紀の間に欧州社会はフランス革命とその反動の恐怖政治、独裁者ナポレオンの登場とその追放という、歴史を揺るがす激動が見舞っている。当然〈カリオストロ〉という詐欺師の暗躍からゲーテが受け止めた文化的な衝撃は時間の経過で変質しているはずだが、それでもパレルモという欧州の周縁が生んだこの〈山師〉の影は終生彼の胸中にとどまっていたのであろう。
 
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〈カリオストロが先ぶれとなってヨーロッパにもたらされた「無秩序」、すべての階級と人物が自分の居るべき場所を見失ったと感じた無政府状態は、ところもコルシカ島生まれの青年将校ナポレオンの登場によって、すべての人間があるべき場所を見出すはずの皇帝独裁に転換された。亡霊が再帰し、沈める王国はシチリアではなくコルシカから、ふたたび浮上したのであろうか〉

 ドイツ文学者の種村季弘は『山師カリオストロの大冒険』でこのように述べている。文豪ゲーテと山師カリオストロ伯爵という、この時代の欧州の対極で向き合った二人の同時代人の虚々実々の〈対決〉は、ナポレオンの登場によってとどめをさされた、と。
 
 革命前夜の1789年末、〈カリオストロ〉はフリーメーソンを通した異端、背教行為のかどで異端審問法廷に逮捕され、ローマのサンタンジェロ監獄に収監されたのちに獄死した。
 ゲーテは『イタリア紀行』で、この〈山師〉生い立ちからその後の足取りを、故郷のパレルモの関係者の証言や訴訟文書をたどって重ねて振り返っている。
 ジュゼッペ・バルサモというパレルモの〈極道〉が〈カリオストロ伯爵〉を名乗って各地を遍歴し、神秘や奇跡を説いた。カリオストロは欧州の社交界を手玉にとって詐欺を重ねるが、やがてその化けの皮がはがれる―。
 ゲーテはその足跡を、喝采から幻滅にいたる自らの内面の経験として記すのである―。

〈しかし欺かれた者や半ば欺かれた者および他人を欺く者たちが、この男とその狂言を幾年ものあいだ崇拝し、この男の仲間に加わることを非常な誇りにすら感じ、そして彼らの妄信的な自惚れの高みから人間常識などを―軽蔑しないまでも―憐れんだりするのを見て、憤怒の念を禁じえなかったような理性的な人間にとっては、この文書はこのままでも十分に好個の記念物たるを失わないであろう〉

 大革命の波乱を遠ざけて疾風怒濤の同時代の浪漫の魂を探り続けたこの大詩人は、19世紀半ばまで長生したが、1790年には「首飾り詐欺事件」を素材にカリオストロをモデルにした5幕喜劇『大コフタ』を書いている。文明の転換期のカオスが産み落としたカリオストロというトリックスターの影は、ついに終生この作家に付きまとったのであろう。

◆さまざまな仮装の男女でにぎわうヴェネツィアの冬のカーニバル

 カリオストロやカザノヴァのような〈山師〉が紛れ込み、わがもの顔でふるまってにぎわったヴェネツィアの冬のカーニバルは、フランス革命で旧秩序が崩壊した8年後、ナポレオン戦争でヴェネツィア共和国が崩壊すると禁止された。華やかな衣装とアイマスクで仮装した男女が、ひととき身分を離れて行き交い踊る12世紀から続いた真冬の風物詩もそれ以降、長い間この街から姿を消した。
 伝統が復活したのは20世紀の後葉の1979年である。仮面の意匠と奇抜な扮装を競う人々の賑わいはいまも変わらないが、ゲーテが探し求めたあの〈山師〉の影はもはやない。

◆標題図版 ジョバンニ・ティエポロ『メヌエット(カーニバルの光景)』
1750年、油彩・カンバス パリ、ルーヴル美術館
 



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