晩翠怪談 第25回 「スピード引退」「すとん、ぱーん!」「消えぬれば」
■スピード引退
松原さんは3年ほど前にアウトドアの趣味を始め、それから2年後にすっぱりやめた。
原因は言わずもがな、趣味をやめたくなるほど恐ろしい目に遭ったからである。
初冬のある日、彼は独りで山へキャンプに出掛けた。いわゆるソロキャンプというやつである。
独りきりの贅沢な時間を愉しみたかったので、周りに誰もいない場所を探した。
ここぞと思って決めたのは、山の中腹辺りに広がる木立ちの中。
地面にはテントを張って焚き火ができるくらいのスペースがあったので、按排がよかった。
やがて夜も更け、いつしかテントの中で熟睡していた時のことである。
外から聞こえる不審な足音で、松原さんは目を覚ました。
足音は、テントの前の少し離れた距離から聞こえてくる。がさがさと地面の落ち葉を踏み拉く渇いた音の他に、「はふ、はふ」と湿った息遣いのような音も聞こえてきた。
狐や狸と思うには重すぎる足音である。ならば熊かと思い、みるみる背筋が凍り始める。
寝たふりを決めこむべきかと迷ったが、やはり正体は確認しておくべきだろうと判じた。
寝袋から抜けだし、テントのパネルをそっと開け、隙間から外の様子を覗き見る。
冷たい空気が流れる闇の中では、得体の知れない女が四つん這いになって動いていた。
外は身を切られるような寒さなのに、女は薄手の白いキャミソール姿で、なおかつ裸足である。地面に向かって長い黒髪がぞろりと垂れ落ち、顔の様子はうかがえない。
女は「はふ、はふ」と息を乱しながら、地面をゆっくりと這い回っている。その動きの印象は獣というより、ある種の昆虫を思わせる趣きがあった。
その姿は暗闇に半ば霞んで朧だったが、存在自体ははっきりと目に見える。音だって最前からしつこいまでに聞こえてくる。
果たして女は生身の人か、それともこの世ならざる存在だろうか。
どちらにしても恐ろしいと思いながら見ていると、女はまもなく闇の中に身を透けさせながら消えていった。生身の人ではできない芸当である。
こんなことがあったのを機に、松原さんはアウトドアの世界から綺麗に足を洗ったのだという。
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